「 戦国時代 」一覧

太閤・豊臣秀吉の死因。毒殺?それとも脚気・大腸癌・腎虚あたりか?

太閤・豊臣秀吉の死因。毒殺?それとも脚気・大腸癌・腎虚あたりか?

太閤・豊臣秀吉の死因については多くの説がある。死因についての記録が残っていないのが原因であるのだが、前から不思議には思っていた。死因についての記事ではあるが、特に毒殺説にスポットをあてている。根拠はないが、毒殺説ではないかと管理人自身は思っているからだ。他の諸説も記述している。

慶長伏見地震。伏見城天守は倒壊、歌舞伎・落語「地震加藤」の題材

慶長伏見地震。伏見城天守は倒壊、歌舞伎・落語「地震加藤」の題材

大河ドラマ「真田丸」第27話「不信」で伏見城の絵図面が登場したので、慶長伏見地震を調べてみた。死者は1,000人を超え、伏見城でも600人が圧死したと伝わる。この地震での著名な死者は加賀爪政尚、横浜一庵。慶長伏見地震は歌舞伎・落語「地震加藤」の題材にもなっている。

福島正則。羽柴清須侍従、広島城改修などが原因で晩年は改易

福島正則。羽柴清須侍従、広島城改修などが原因で晩年は改易

福島正則は羽柴清須侍従などと呼ばれた。幼少期を秀吉の小姓として加藤清正らと育っている。また賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名。朝鮮出兵後は、石田三成らの文治派と対立する。会津征伐に従軍し、小山評定では重要な役割を果たし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利する流れを作った。

一の台。父は菊亭晴季、豊臣秀次の正室(継室)。秀次事件で処刑

一の台。父は菊亭晴季、豊臣秀次の正室(継室)。秀次事件で処刑

一の台。父は菊亭晴季、豊臣秀次の正室(継室)。子は隆清院(真田信繁の側室)。豊臣秀次事件では、父・菊亭晴季も連座したとして越後に流刑になっている。一の台は連座の罪で処刑されている。連れ子には、おみや(のちのお美屋御前)がいる。秀次の側室とあるが、信憑性は薄いようである。

五大老・五奉行。豊臣政権での合議制、対徳川家康の意味あいが強い

五大老・五奉行。豊臣政権での合議制、対徳川家康の意味あいが強い

1595年(文禄4年)に起きた豊臣秀次事件は豊臣政権に政治危機をもたらした。秀吉の嫡男・秀頼も幼少である。そこで秀吉は、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図る。秀吉起死回生の策「五大老・五奉行」制度は上手くいくはずだった・・・。

島左近(清興)。三顧の礼をもって迎えられ、石田治部少輔三成に仕える

島左近(清興)。三顧の礼をもって迎えられ、石田治部少輔三成に仕える

島左近(清興)といえば、三顧の礼をもって迎えられ、石田治部少輔三成に仕えたことで有名である。俸禄・2万石は破格の待遇だ。三成が佐和山19万石になる前に仕えている説が有力。関ヶ原の戦いで討ち死にしたと伝わるが、遺体は見つかっていない。そしてのちも生きたとの伝承もある・・・。