小山評定。家康包囲網を打破し、関ヶ原の戦い勝利の流れを作る

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徳川家康は会津征伐のため下野小山に到着。鳥居元忠の使者から石田三成が挙兵し伏見城攻撃を開始した知らせを受ける。1600年(慶長5年)7月25日、会津征伐に従軍した諸大名を招集し軍議を開催。「小山評定」である。西軍・東軍の選別がなされ、東軍が一致団結した大きなイベントであることは間違いない。その流れで関ヶ原の戦いに至る。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

小山評定について記事投稿します。少し「犬伏の別れ」についても触れてます。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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小山評定

1600年(慶長5年)7月、徳川家康は会津征伐のため江戸城にいた。

  • 1600年(慶長5年)7月19日、西軍首脳・増田長盛より書状が届く。内容は石田三成らが家康打倒の謀議を知らせるものであった。
  • 1600年(慶長5年)7月21日、家康が江戸城を出発。
  • 1600年(慶長5年)7月24日、下野小山に到着。三成が挙兵し伏見城攻撃を開始したことを鳥居元忠の使者から知る。

増田長盛からは、その後も書状が届けられ、この時点で長盛は三成に味方していない。淀殿からも石田・大谷刑部の動きを鎮圧する要請がきていた。

1600年(慶長5年)7月25日、会津征伐に従軍した諸大名を招集し軍議を開催。「小山評定」である。

会津征伐。直江状により上杉征伐を決意、関ヶ原の戦いの幕開け
太閤・豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は台頭した。ことごとく秀吉の遺命に背いた。勝手に諸大名の屋敷を訪れ、諸大名との縁組を行った。石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件により、政敵・石田三成、前田利長を追い落とした。次のターゲットは、会津の上杉景勝。しかし会津征伐の真の狙いは・・・。
石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。
大谷刑部少輔吉継。義の人、石田三成との友情~関ヶ原の戦いで散る
大谷吉継の前半生は少し謎の部分が多いです。「秀吉の隠し子説」は根拠がないが好きな話です。奉行としては優秀だったようです。大谷刑部に関しては賛否両論があり過大評価なんて声もあります。あまり解明されていないからミステリアスでもあり、人気があるのかもしれません。やはり関ヶ原の戦いでの強烈な奮戦と死に様でしょうか・・・。
鳥居元忠。秀吉からの官位を断る家康への忠義、伏見城の戦いで戦死
忠義の三河武士・鳥居元忠。徳川十六神将。豊臣秀吉からの官位の推挙は固辞。下総香取郡矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖。1600年(慶長5年)、伏見城の戦いで壮絶な最期をとげている。家康は伏見城の血染め畳を江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせている。伏見城の床板は「血天井」として現在も伝わる。

小山評定の内容

家康にとって最大の問題は、東海道・東山道に所領を有する豊臣恩顧の武将たちの動向だった。小田原征伐以降、秀吉が徳川家康包囲網を意識したであろう配置である。

家康は黒田長政を使って福島正則を抱き込むことを考えた。「秀頼には害が及ばないこと、三成が秀頼のためにならないこと」を説明させ、東軍に味方する態度を鮮明にするように説明した。

この時点では「内府ちがひの条々」は小山に届いてなく、西軍の総大将が大坂城で秀頼を擁した毛利輝元であることも家康以下知らなかった。

あくまでも家康は淀殿、三奉行からの鎮定要請に基づき、大坂城からの指示に従っている体を保った。

評定の最初、山岡道阿弥・板部岡江雪斎から情勢の説明があり、大坂で妻子が人質になっているため進退は自由であるとの家康の意向が伝えられた。

福島正則が口火を切る。大坂のことは考えず、家康に味方することを表明、黒田長政・徳永寿昌が続いた。ほぼ全ての従軍諸将が家康に従うことを誓約。

続いて掛川城主・山内一豊が居城の提供を申し出、東海道筋の諸大名がこれにならった。この考えは一豊の盟友である堀尾吉晴の子・堀尾忠氏と事前に協議したものであった。

正則は秀吉より預かっていた非常用兵糧20万石も家康に提供すると表明もしている。

信濃上田城主・真田昌幸、美濃岩村城主・田丸直昌は東軍に味方せず西軍に退転した。

家康は秀吉が配置した「家康包囲網」を打破し、兵糧を確保したことで軍事展開が容易になった。

淀殿(茶々)。豊臣秀吉の側室、秀頼の母、母は織田信長の妹・市
豊臣秀吉の側室・淀殿。父は浅井長政で、母は織田信長の妹・市。同母妹は初、江。子は鶴松、秀頼。猶女は完子。本名は茶々、菊子。秀吉の側室となってからは皆さんご存知だろう。秀吉が登場するドラマには欠かせない人物である。淀殿に「菊子」という名があるのは知りませんでした。淀殿といえば大坂冬の陣・大坂夏の陣なのだが・・・。
板部岡江雪斎。北条三代の外交僧、北条滅亡後は秀吉・家康に仕える
北条三代(氏康・氏政・氏直)に仕えた外交僧・軍師である板部岡江雪斎。後北条家滅亡後は豊臣秀吉・徳川家康に仕えている。千利休の高弟・山上宗二と交流があり、和歌・茶の湯にも造形が深かったと言われる。愛刀の江雪左文字は国宝であり、執権・北条氏(北条時行)の子孫とされる。
福島正則。羽柴清須侍従、広島城改修などが原因で晩年は改易
福島正則は羽柴清須侍従などと呼ばれた。幼少期を秀吉の小姓として加藤清正らと育っている。また賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名。朝鮮出兵後は、石田三成らの文治派と対立する。会津征伐に従軍し、小山評定では重要な役割を果たし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利する流れを作った。

小山評定の背景

小山評定の背景には、東海道筋の大名が豊臣秀次事件以降に家康との接近を強めたためとする指摘がある。やはり豊臣秀次事件は豊臣政権にも徳川家康にとっても大きな分岐点であったと思っている。

東海道筋の居城に徳川譜代の松平康重、松平家乗、内藤信成、保科正光、北条氏勝らが城将として入城。守備にあたる。

評定は石田三成迎撃で決定。1600年(慶長5年)7月26日以降、福島正則の居城である尾張・清洲城を目指し出陣。

伊勢方面の富田信高、古田重勝、氏家行広、福島正頼、九鬼守隆らは居城防備のため各居城へ戻った。

1600年(慶長5年)8月4日、徳川秀忠は中山道より美濃方面への進軍のため出陣。約3万8,000の軍勢で榊原康政、大久保忠隣が同行し、参謀は家康の懐刀である本多正信であった。

家康は上杉・佐竹への抑えとして、次男・結城秀康を総大将に里見義康、蒲生秀行、那須資景らを宇都宮城に留め、監視させた。

家康は江戸城に戻ったが、しばらく動かなかった。「内府ちがひの条々」の内容が東軍側にも伝わった。豊臣恩顧の武将たちの動向が不透明で動けなかったのである。

1600年(慶長5年)9月1日、家康は約3万3,000の軍勢で出陣。東海道を大坂方面へと西上した。

豊臣秀次事件。豊臣政権に亀裂が生じ、関ヶ原の戦いの一因?
1595年(文禄4年)6月末、関白・豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がる。豊臣秀次事件の始まりである。粛清の理由は諸説あり、ハッキリとはわかっていない。秀次が切腹したのは事実であり、秀次の係累は根絶された。そこまでする必要があったのだろうか。聚楽第、近江・八幡山城は破却された。秀次という人物がいなかったかのように・・・。
徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源
徳川秀忠は地味な印象を与えてしまう。関ヶ原の戦いに遅れたことが目立つが、調べていくと秀忠のイメージが変わった。遅参に関しても諸説があり、一概に秀忠だけを責めることはできない。それよりも征夷大将軍への就任、以降に行ったことは徳川政権が長期的に続いたことを考えると果たした役割は大きい。
本多正信。家康の名参謀、子・正純は宇都宮城釣天井事件で失脚
本多正信は徳川家康に「友」と呼ばれ、家康・秀忠に仕えた。相模国玉縄藩主。従五位下・佐渡守。本姓は藤原氏。江戸幕府・老中。家康の征夷大将軍就任のため朝廷との交渉に尽力。本願寺内部の対立を利用し分裂させ勢力を弱めている。江戸幕府では権勢を誇る。嫡男・正純に訓戒を残しているが、正純は「宇都宮城釣天井事件」にて失脚している。

犬伏の別れ

犬伏の別れ。関ヶ原の戦いを前にした真田父子の別れ,アイキャッチ画像

ここで真田父子の犬伏の別れについても触れておく。

1600年(慶長5年)7月21日、会津・上杉討伐に向かっていた真田昌幸、信幸、信繁父子は、下野国犬伏(現在の佐野市)に到着し陣を張った。

そこへ石田三成から豊臣方に味方するよう旨の密書が届いた。

ここから先は、犬伏の別れについての記事がある。よろしければ参考にしてみてください。

犬伏の別れ。関ヶ原の戦いを前にした真田父子の別れ
関ヶ原の戦いを前に、下野国犬伏(現在の佐野市)で真田昌幸、信幸、信繁父子は話し合いをする。信幸が徳川方、昌幸と信繁が豊臣方に分かれて戦うことを決断。「犬伏の別れ」である。どちらが勝っても真田の家が残るようにと言われている。信幸(信之)の正室の養父は徳川家康であり、信繁(幸村)の正室の父は大谷刑部少輔吉継であるのだか。

史跡・小山評定跡

【武将ゆかりの地】史跡・小山評定跡。東軍諸将結束の軍議の場所,画像01

「小山評定」が行われた史跡・小山評定跡に行ってきました。

詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

史跡・小山評定跡。東軍諸将結束の軍議の場所、小山御殿跡
関東に在住する管理人が「史跡・小山評定跡」に行ってみた。慌ただしく大河ドラマ「真田丸」第36話「勝負」放送日の前日に訪れた。事前に調査しないで行ったので、隣の敷地に「小山御殿広場」があるのを知らなかった。徳川家にとっては、縁起の良い場所になり、歴史的にも重要な場所である。小山評定にも触れています。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

関ヶ原の戦い – Wikipedia

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

大河ドラマ「真田丸」でも「小山評定」を描いてほしいものです。真田家にとって大きなイベントである「犬伏の別れ」があるので期待しています。

前述してますが、「豊臣秀次事件」は豊臣家に暗い影を落とした。

一方、豊臣秀吉によって身動きできなかった徳川家康が力をつけた大きなターニングポイントになったといわざるをえない・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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