真田幸昌よりも「真田大助」のほうが広く知られている印象がある。名前「幸昌」は、祖父・真田昌幸の名を逆にして幸昌と命名されたといわれる。生年については諸説あるが、生涯といえるほど長くなく若くして亡くなっている。真田大助は最期が若年であったことから、なにか物悲しくてなりません・・・。
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真田信繁(幸村)の子・真田幸昌(大助)について。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
真田幸昌(大助)
真田幸昌(さなだゆきまさ)。大助(だいすけ)。1601年(慶長6年)7月24日~1615年(慶長20年)5月8日。生誕年については1600年(慶長5年)、1602年(慶長7年)、1603年(慶長8年)説がある。
父は真田信繁(幸村)。母は正室・竹林姫(竹林院)。
別名は信昌、幸綱、治幸。通称は大助。講談では「真田大助」の名で登場。真田大助の名で知られる。
兄弟は、
- 阿菊/すへ(石合重定/道定室)
- 於市
- 阿梅(片倉重長後室)
- あくり(蒲生郷喜室)
- なほ(御田姫、岩城宣隆室)
- 阿昌蒲(片倉定広室)
- おかね(石川貞清室)
- 守信
- 三好幸信
墓所は善名称院(真田庵)。諡号は頤神院殿直入全孝大居士。
真田幸昌の生涯
父・信繁は関ヶ原の戦い後、高野山に流罪となった。紀伊国九度山に蟄居していた時期に生まれる。生年は前述のとおり諸説がある。
名前「幸昌」は、祖父・真田昌幸の名を逆にして幸昌と命名されたといわれる。
- 1614年(慶長19年)、父・信繁とともに九度山を脱出。大坂城に入城。
- 1615年(慶長20年)、大坂夏の陣。「道明寺の戦い」に出陣。
道明寺の戦いでは、敵の武将の首を取ったが、手傷を負う。
父・信繁は、主君・豊臣秀頼が和議を検討しているという噂があるから、幸昌に阻止するように命じた。
幸昌は父とともに最後まで付き従うつもりだったが、やむなく大坂城に引き返したとされる。
真田幸昌の最期
幸昌は大坂城落城時、まだ若年であった。
そのため速水守久らからは、脱出を勧められた。また幸昌は、豊臣家に特別な恩顧もないことなどから・・・。
しかし幸昌は、それらを拒絶、秀頼の切腹に殉ずることにした。
死の経緯については諸説ある。
幸昌は「我は真田左衛門佐信繁の倅なり」と叫んで介錯を加藤弥平太にして切腹したとも、加藤と刺し違えたともいわれる。
別説「老将座談」によれば、秀頼の命で加藤弥平太と武田左右吉が介錯をするように定められたともする。
「幸昌の殉死」は美談として有名。
享年は、生年の違いにより13から16の間。
墓所は和歌山県九度山町の善名称院ほか。
真田幸昌の生存伝説
父・信繁と同じく、各地に生存伝説が残る。
現在の大阪城の淀殿・豊臣秀頼らの自害の地には地蔵が建てられている。
その前には、淀殿・秀頼・大野治長と並んで真田幸昌(大助)の名前も記されている。
鹿児島市谷山には幸昌が逃がしたとされる秀頼の墓が現存。
大河ドラマ「真田丸」では浦上晟周が演じる
大河ドラマ「真田丸」では真田大助を浦上晟周が演じる。
1985年放送の「真田太平記」では、少年期を小野隆が演じ、青年期を片岡孝太郎が演じている。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
管理人にとって、真田大助って悲しい印象しかなかった。
やはり父が真田信繁(幸村)であり、生涯が短すぎるからだろう・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。