清音院殿、真田信幸(信之)の正室で信吉を産む。真田丸では「こう」

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真田丸では「こう」という名前で、女優・長野里美が演じている清音院殿。清音院という名前は戒名からである。真田信幸(信之)の正室で長男・信吉を産みます。父は真田信綱。母は於北殿(高梨政頼の娘または妹)。のちに信吉は沼田城主になっている。大河ドラマ・真田丸での「おこう」は病弱ではあるが、魅力的なキャラクターになっています。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

真田信幸(信之)の正室・清音院殿について記事投稿します。

それではいってみよう!

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清音院殿

清音院殿。清音院という名前は戒名からである。?~1619年(元和5年)?。父は真田信綱。母は於北殿(高梨政頼の娘または妹)。真田信幸(信之)の正室。子は信吉。

前提として清音院殿の資料は、ほとんど残っていなく、はっきりとしたことはわかっていない。

信憑性は薄いが真田家の重臣・高梨内記は於北殿が真田家に嫁いできた時に、真田家の家臣になったと言われている。於北殿の弟が高梨内記との説がある。

1575年(天正3年)、長篠の戦いで父・真田信綱が討死。叔父・昌輝も討死したため真田家の家督は武藤家に養子に出ていた叔父・武藤喜兵衛(真田昌幸)が相続する。

真田昌幸は家督相続をしたが嫡流ではないため、真田家嫡流の清音院殿を嫡男・信幸(信之)の嫁とすることで、真田家本流の正当性を強化したと言われている。

信幸(信之)と清音院殿は、いとこ同士になるが当時は珍しいことではなく、よくあることである。

1595年(文禄4年)、信幸(信之)の長男・信吉を産んでいる。

真田信綱。信繁の「左衛門佐」に込める思い、血染めの陣羽織は有名
真田信綱。父は真田幸隆。母は恭雲院(河原隆正の妹)。「武田二十四将」にも数えられる。官途は「左衛門尉」。これにより真田信繁(幸村)の官職「左衛門佐」の由来とされる。信綱のように剛勇になってほしいという弟・真田昌幸の期待があったといわれる。
真田信幸(信之)と本多平八郎忠勝の娘、正室小松姫
弟真田信繁(幸村)と違って地味な印象がある真田信幸(信之)。しかし関ヶ原の戦い、大坂の陣を乗り越え真田家を残すのは真田信幸(信之)である。そして信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。その血筋は現在まで残る。信幸(信之)の正室は本多平八郎忠勝の娘、小松姫である。この二人に焦点をあてて記事投稿をします。
高梨内記。信繁(幸村)の傅役。九度山に付き従い、大坂夏の陣で戦死
真田信繁(幸村)の傅役であった可能性が高い高梨内記。娘は信繁(幸村)の側室になっている。第一次上田合戦で武功をあげ、関ヶ原の戦い以降は真田昌幸・信繁(幸村)に付き従い、九度山へ同行している。昌幸死後も九度山に残り、信繁(幸村)とともに大坂冬の陣・大坂夏の陣で豊臣方として戦う。大坂夏の陣で信繁(幸村)とともに戦死。

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

真田信幸の妻・こうとはどんな人?

小松姫(小松殿)が正室になってからの清音院殿

清音院殿、真田信幸(信之)の正室で信吉を産む。真田丸では「こう」,画像01

真田信幸(信之)の正室というと徳川家の重臣・本多平八郎忠勝の娘である稲姫・小松姫(小松殿)が有名です。小松姫(小松殿)の養父は徳川家康です。

小松姫(小松殿)が真田家に嫁いできた時に、清音院殿は側室に格下げになったのでしょうか?

正室が一人という考えは江戸時代に入ってからと言われています。現代人である我々の固定観念もあるのでしょう。

清音院殿は側室ではなく、やはり正室ではないかと・・・。真田家嫡流でもありますし、正室並みの待遇で真田家では大事にされたのではないかと思います。

清音院殿は1619年(元和5年)に亡くなったと言われている。

真田信吉

ここで清音院殿が産んだ真田信吉について。

真田信吉(さなだのぶよし)。1595年(文禄4年)~1635年(寛永11年)11月28日。沼田城主。従五位下河内守。

  • 1614年(慶長19年)、病気療養の父・信之に代わり弟・信政とともに大坂の陣に参戦。豊臣軍に敗れて逃走したと言われている。
  • 1615年(元和元年)、従五位下河内守に叙任。
  • 1616年(元和2年)、父・信之が上田に移ったため、沼田城主として3万石の所領を相続。のちの沼田藩ではない。
  • 1627年(寛永4年)8月、酒井忠世の娘(松仙院)を正室に迎える。松仙院との間には長姫をもうけている。
  • 1634年(寛永11年)11月28日、父・信之より早く死去。享年40。

側室との間に、熊之助・信直の二子をもうけている。

信吉の死後は、嫡男・熊之助が相続したが早世したため、信吉の所領は次男・信直と弟・信政に分割相続されている。

真田信吉。大坂の陣で逃走、松代藩・沼田城主。従五位下・河内守
真田信吉(さなだのぶよし)。母は清音院殿(真田信綱の娘)。官位は従五位下・河内守。信濃松代藩・沼田城主。この時の沼田の所領は独立した藩ではない。病気療養の父・信之の代わりに弟・信政とともに大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。豊臣方に敗れ逃走したといわれている。

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

真田信吉 – Wikipedia

「真田丸」では「こう」という名前。女優・長野里美が演じる。

「真田丸」では「こう」という名前で女優・長野里美が演じています。

しゃもじも持てないくらい病弱という設定です(笑)。

長野里美の演技がドリフターズのコント「もしもシリーズ」で、志村けんがやってた「今にも死にそうな婆さん役」に見えてならないシーンがある。

長野里美のインタビュー記事によると、脚本家・三谷幸喜氏からは「もしも元気のない芸者がいたら」というコントを参考にしてみてくださいと言われたそうです。

管理人が感じた志村けんのコント「もしもシリーズ」は間違ってなかったようです(笑)。

機会があれば是非視聴してください。

今やコントキャラの「おこう」は真田丸で魅力的なキャラクターになっています!

大河ドラマ「真田丸」第九話「駆引」感想。室賀正武が張り切る
徳川家康と北条の戦いは間近。源次郎信繁は春日信逹の一件以来悩んでいる。室賀正武を味方に引き入れた真田昌幸だが国衆たちによる信濃支配の話は進まない。昌幸は家康を利用しながら大名になることを決意する。源次郎信繁の策により真田を含めた小県・国衆たちが味方した徳川が勝利する。が、家康は北条家と和睦をしてしまう・・・。

「真田丸」第11話「祝言」では真田名物・雁金踊りを踊る

その「おこう」が「真田丸」第11話「祝言」では真田名物・雁金踊りを踊るというシーンがある。

源三郎信幸(大泉洋)に頼まれ、祝言の最中に源次郎信繁(堺雅人)を広間から出さないためという設定である。

別間では室賀正武(西村雅彦)殺害計画が進んでいるのだが・・・。

病弱な「おこう」が踊りと思ったが、夫・源三郎信幸(大泉洋)のために雁金踊りを一生懸命踊ってます!

雁金踊り。真田丸の祝言で源三郎信幸の妻・おこう(長野里美)が踊る
「真田丸」第十一話「祝言」で源次郎信繁と梅の祝言の最中、病弱な「おこう」が披露する真田名物・雁金踊り(かりがねおどり)。管理人は踊りのことは詳しくないので、雁金踊りを調べてみた。ゆったりなテンポの踊りです。それから雁金は、もうひとつの真田家家紋「結び雁金」を連想させる。別間では室賀正武殺害が行われている・・・。

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2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

「真田丸」で「おこう」が登場すると、笑ってしまいます。そして癒やされます。

「おこう」を魅力的なキャラクターにしてくれた三谷幸喜さんを含む制作スタッフ、「おこう」を演じる長野里美さんに感謝ですm(__)m

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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