真田信繁(幸村)、上杉景勝の人質~豊臣秀吉の人質へ

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真田信繁(幸村)の上杉景勝の人質から秀吉の人質になるまでをまとめてみました。徳川家との決別により真田家は信繁(幸村)を人質として上杉家に臣従する。第一次上田合戦を経て、信繁(幸村)は上杉家から秀吉の人質となり、真田家は天下人・秀吉に臣従します。人質と言っても上杉家・豊臣家での信繁(幸村)の待遇は良かったようです。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

真田信繁(幸村)の「上杉景勝の人質~豊臣秀吉の人質」を切り出してみました。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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沼田領問題の中、上田築城

1582年(天正10年)、天正壬午の乱の和議条件により沼田領問題が浮上していた。徳川家康が北条家に真田家の領地である沼田割譲を勝手に約束していたのだ。このとき真田家は徳川家に臣従している。

そんな1583年(天正11年)4月頃、真田昌幸は上田築城に着手している。「上杉に対する備え」として徳川家の許しは得ている。上田城の完成は1585年(天正13年)末である。

1585年(天正13年)4月、家康が甲府に軍を進めて昌幸に対し沼田領を北条氏に引き渡すように求める。昌幸は家康の要求を拒否し、真田家と徳川家の決別は決定的となる。

本能寺の変から豊臣秀吉への臣従までの真田昌幸、まさに表裏比興の者
本能寺の変により織田信長を失った真田家。大きな後ろ盾を失った真田家は豊臣秀吉に臣従するまで、たびたび主君を替えながら家の存続を目指す。結果、信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。真田昌幸は数々の苦渋の決断がありながら、真田家の立ち位置を変える。管理人の頭を整理すべく、記事投稿します。。
真田家から見る沼田領問題。天正壬午の乱から小田原征伐まで。
真田家から見ると沼田領は、重要な領土であった。沼田領問題は、天正壬午の乱から小田原征伐に至るまで、なかなか解決しなかった。真田昌幸が変幻自在に主君をかえながら、なんとか沼田領を死守する。豊臣秀吉の裁定により北条家の領土になるが、北条氏滅亡後は、真田信幸(信之)が城主になることで、ふたたび沼田領は真田家に戻るのである。。
真田家と沼田城。真田信幸(信之)の正室・小松姫の逸話と平八岩。
沼田領問題のもとになる沼田城。交通の要所であり、各大名から見ても真っ先に取得したい城であった。事実、城の支配者は何回か交代する。豊臣秀吉による小田原征伐の火種にもなっている。紆余曲折ありながら、北条家滅亡後は、ふたたび真田家の支配となる。小松姫の逸話と平八岩を紹介しながら、おもに真田家と沼田城についての記事投稿です。

真田家が上杉景勝に臣従

真田昌幸は前に一度、上杉景勝を裏切っているが上杉家からの援護の道を模索する。また当時の上杉家の背後には羽柴秀吉がいるため、間接的な秀吉からの援護も期待できた。

昌幸は上杉家への臣従の証として、次男・信繁(幸村)を人質として差し出している。付き添いとして叔父・矢沢頼綱の嫡子・頼幸(頼康)を軍兵をそえて同行させている。

1585年(天正13年)7月15日、景勝は昌幸に起請文を与えている。これにより正式に真田家は上杉景勝に臣従。

起請文の中で景勝は手違いがあっても謀反の噂があっても、惑わされずに情をかけると大いに歓待につとめている。さらに昌幸に沼田・吾妻・小県のほか屋代の跡を宛がうことにしている。

屋代の跡とは、上杉家を離反し家康のもとに走った屋代秀正の旧領のことである。景勝は屋代の旧領3千貫文の内、1千貫文を信繁(幸村)に与えている。破格の待遇である。

第一次上田合戦

第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)、真田VS徳川,アイキャッチ画像

この戦いに限り、神川合戦、上田・神川の合戦とも言われる。

1585年(天正13年)7月、浜松城に帰還した徳川家康は、真田昌幸が上杉景勝に通じたことを知る。これにより真田討伐を決意。

1585年(天正13年)閏8月、家康は鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7000の兵を派遣。甲斐から諏訪道を北国街道に進み、真田氏の本拠・上田城に侵攻。第一次上田合戦である。

対する真田勢は、約1200人といわれ真田昌幸は上田城、嫡男・信幸(信之)は砥石城、矢沢頼康は矢沢城に上杉援軍と籠城した。

閏8月2日に上田城に攻め寄せた徳川勢は、二の丸まで進むが反撃を受け撃退。後退の際に城方の追撃を受け、矢沢頼康もこれに加勢している。砥石城の信幸(信之)は徳川勢を横合いから攻めた。徳川軍の多数の将兵は、神川で溺死した。

真田家の戦法は地の利を活かしたものであり、実に巧みであった。徳川軍の戦死者は1300人であるのに対して、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだと言われている。

閏8月3日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(のち真田氏に臣従)が籠城する丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日間程対陣を続ける。

閏8月28日、家康は援軍(井伊直政、大須賀康高、松平康重)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は上田より撤退。その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返す。

1585年(天正13年)11月、譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔したことにより完全に撤退。

第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)、真田VS徳川
天正壬午の乱の和睦条件で浮上した沼田領問題。沼田を巡り争う真田家と北条家。真田昌幸が上杉景勝に通じたことにより徳川家康は、真田討伐を決意。第一次上田合戦である。1585年(天正13年)閏8月から同年11月、徳川家譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔したことにより完全に撤退。真田家を討伐することはできなかった。
矢沢薩摩守頼綱。真田幸綱(幸隆)の弟、真田昌幸の叔父。
矢沢頼綱というとドラマの影響からか、俳優・加藤嘉の顔が浮かんでしまう。矢沢頼綱は真田幸綱(幸隆)の弟であり、真田昌幸の叔父になる。特に沼田城代としての功績が大きい。北条氏の攻撃を何度も退けている。矢沢家は真田家臣団の最高位にあり、明治に至るまで筆頭家老であった。知行高は2,000石。
矢沢三十郎頼康(頼幸)。父は矢沢薩摩守頼綱、第一次上田合戦で奮闘
矢沢三十郎頼康(頼幸)。父は猛将・矢沢薩摩守頼綱。ドラマでは真田家の良きサポート役として描かれている。真田源次郎信繁が上杉景勝の人質に出される際には警護役として同行している。第一次上田合戦では徳川家臣・大久保忠世を震え上がらせたエピソードも残っている。真田家筆頭家老であり、まさに矢沢家あっての真田家である。

表裏比興の者

第一次上田合戦の最中、真田昌幸は秀吉に書状を送り援助を依頼している。

1585年(天正13年)10月17日、秀吉は「委細の段聞こし召し届けられ候心安かるべく候」と昌幸に返事をしている。

1586年(天正14年)、秀吉は家康に「真田は表裏比興の者であるから成敗をすることが大切である。」と言って、上杉景勝には「真田は表裏比興の者であるから成敗をするので、真田を助けることのないように。」と言っている。

ここで「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの)」が登場する。前年とは真逆のことを言っている。秀吉が昌幸を評した言葉であるが、秀吉こそが「表裏比興の者」である。

真田昌幸を評する言葉として「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの)」は有名である。

真田家が豊臣秀吉に臣従

真田家が豊臣秀吉に臣従するまでを書きます。

  • 1585年(天正13年)11月、秀吉は真田昌幸に上洛を促す。
  • 1586年(天正14年)6月、上杉景勝が上洛する折に、信繁(幸村)は大坂城の秀吉に出仕。これより信繁(幸村)は秀吉の人質となる。
  • 1586年(天正14年)7月、徳川家康が昌幸征伐のために甲府に出陣。
  • 1586年(天正14年)8月7日、徳川家康が豊臣秀吉の調停を受けて真田攻めを中止。
  • 1586年(天正14年)11月4日、豊臣秀吉の命令で真田昌幸は徳川家康の与力大名となる。
  • 1587年(天正15年)3月18日、真田昌幸は、小笠原貞慶とともに駿府で徳川家康と会見。その後上坂して大坂で秀吉と謁見し、名実ともに豊臣家臣となる。

  • 1590年(天正18年)の小田原征伐に際して、真田信繁(幸村)は父・昌幸と共に従軍し、石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに参戦したと伝えられる。
  • 1594年(文禄3年)11月2日、真田信繁(幸村)は従五位下・左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜される。

羽柴秀吉、関白相論に介入して関白宣下。武家関白制をめざす
羽柴(豊臣)秀吉は武家関白制を目指します。征夷大将軍就任を断った説もありますが定かではありません。秀吉の登場により朝廷は混乱。五摂家による関白の持ち回りの崩壊、気前よく官位を与えたことにより官位が不足。秀頼誕生により秀次事件。秀吉死後、関白不在、大臣は徳川家康だけでした。秀吉が秀頼のために空位にしていたのです・・・。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

幸村人質時代(上杉、豊臣へ) / 真田氏の館 三代録 ――幸隆、昌幸、幸村  真田三代の記録

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2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

上杉景勝は真田信繁(幸村)が秀吉の人質となった時、秀吉に返しくれるように頼んでいる。

秀吉は信繁(幸村)を気に入ってしまい、景勝も相手が天下人なので諦めたというエピソードがある。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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