島左近(清興)といえば、三顧の礼をもって迎えられ、石田治部少輔三成に仕えたことで有名である。俸禄・2万石は破格の待遇だ。三成が佐和山19万石になる前に仕えている説が有力。関ヶ原の戦いで討ち死にしたと伝わるが、遺体は見つかっていない。そしてのちも生きたとの伝承もある・・・。
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筒井家の両翼「右近左近」といえば、松倉重信(右近)と島左近のことだと思っていたのだが・・・。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
目次
島左近(清興)
島左近(しまさこん)。清興(きよおき)。1540年(天文9年)5月5日~1600年(慶長5年)9月15日。父は島政勝。筒井氏、石田三成らに仕える。
通称は左近。別名は勝猛、友之、清胤、昌仲。実名は勝猛(かつたけ)といわれるが、文書からは清興。一般には島左近の名で広く知られる。
妻は茶々(北庵法印の娘)。子は信勝、友勝、清正、娘(小野木重勝正室)、珠(柳生利巌室)。
娘の珠は柳生利厳の継室となり、剣豪として名高い柳生厳包は左近の外孫になる。
墓所は立本寺教法院(京都市上京区)、三笠霊苑東大寺墓地(奈良市)、木川墓地(大阪市淀川区)、浄土寺島村家墓地(岩手県陸前高田市)、長崎県対馬市美津島町島山。
戒名は妙法院殿島左近源友之大神儀。
河内守護・畠山氏に仕える
島氏は現在の奈良県生駒郡平群町周辺の在地領主。本拠は椿井城・西宮城。
島氏の本姓は藤原姓。清興の出身を対馬国とする説もあったが、現在は大和国出身であることが明らかになっている。
近年、「島左近」は筒井氏家臣である島氏代々の名乗りとする説もある。
島清興は大和平群郡の国人の家系に生まれた。大和国に勢力を伸ばしていた河内守護・畠山氏に仕えた。
筒井氏に仕える
畠山高政と三好長慶が争う教興寺の戦いに参加。畠山高政は敗北し、清興も敗走。
畠山氏の没落後、筒井氏に従属する。これは教興寺の戦いで、筒井順昭の指揮下で戦ったことが縁であるといわれる。
筒井順昭の後を僅か2歳で筒井順慶が家督相続。清興は筒井順慶を侍大将としてもり立てたといわれる。
「尋憲記」「多聞院日記」らによれば、当時の筒井家の有力家臣としては、
- 八條相模守長祐
- 松蔵権助秀政
- 中坊飛騨守秀祐
らは確認されるが、嶋氏関係の氏名は確認できていない。
1571年(元亀2年)、辰市合戦直前に「嶋左近尉殿」として島左近の名が確認される。
筒井順慶が大和国の覇権を争って松永久秀と戦った筒井城の戦い、東大寺大仏殿の戦いでの島左近の動向は不明。
しかし島左近は、筒井順慶を支え続け重臣に加わったと言われる。
一般には松倉重信(右近)と並んで筒井家の両翼「右近左近」と並び称されたとされるが、史実ではないらしい。
「尋憲記」「多聞院日記」らによれば、筒井家の両翼と呼ばれたのは松蔵権助秀政と松田善七郎盛勝だったようだ。
信貴山城の戦いにおいて、順慶は松永久秀を倒し、筒井家による大和国の統一を成し遂げる。この頃、椿井城主になる。
まもなく主君・順慶は病に倒れた。跡を継いだ順慶の甥・筒井定次とは意見が合わず、筒井家を辞している。実際は島領の農民と中坊秀祐領の農民との水利をめぐる争いが原因とされる。
1588年(天正16年)2月、筒井家を辞す。奈良興福寺の塔頭持宝院に寄食。
のち蒲生氏郷に仕えたとされるが、山鹿素行の「武家事記」では、筒井家を去ってからは、豊臣秀長・秀保に仕えたとされる。
石田三成に仕える
島左近は石田三成に「三顧の礼」をもって迎えられ破格の高禄を食む側近として仕えている。
「古今武家盛衰記」では、
「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」
と謳われている。
島左近は俸禄・2万石で召し抱えられた。「常山紀談」では、当時の三成の禄高4万石のうちの半分を与えられるという破格の待遇としている。
しかし島左近が石田三成に仕えた時期が、三成が佐和山19万石の城主になってからという説も有力である。どちらにせよ俸禄・2万石は破格の待遇だ。
島左近が石田三成に仕官した時期については、1591年(天正19年)正月22日以降、1592年(天正20年)4月以前と考えられている。左近は三成に従って朝鮮出兵に従軍したと伝わる。
ほか石田三成は小姓時代に知行400石全てを投げうって、柴田勝家や主君・豊臣秀吉が1万2千石で召し抱えようとした豪傑・渡辺勘兵衛を召し抱えている。
これが島左近召し抱えの逸話のもとであるとする説もある。
関ヶ原の戦い
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの前日、徳川家康が美濃国赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)到着の報に西軍は動揺した。
家康は会津の上杉景勝、伊達政宗の裏切りに備えて江戸から動けないはずであった。
島左近は西軍を鼓舞するために、兵500を率いて東軍の中村一栄・有馬豊氏両隊に戦いを挑んだ。杭瀬川の戦いである。宇喜多秀家家臣・明石全登隊と共に勝利。
島左近の最期は、黒田長政軍の菅正利率いる鉄砲隊に横合いから銃撃され負傷し死去。
もう一方では、正面の黒田長政軍及び田中吉政軍に突撃し、敵の銃撃により討ち死とする説もある。
徳川家康暗殺計画
1600年(慶長5年)、徳川家康は天下人への野心を隠さず、権力を振りかざした。
危険を感じた島左近は、石田三成に家康暗殺計画を持ちかけたとされる。
「徳川実記」によれば、三成も長束正家と計画しており、正家に会津征伐で東下する家康をもてなさせ、水口城内で家康を斬るという作戦であった。
しかし家康は計画を知っており、夜の内に水口を出立したため、計画は失敗に終わったとされる。
生存説
石田軍記・古今武家衰退記・関ヶ原御合戦当日記・新対馬島誌・関ヶ原町史等では、島左近は関ヶ原の戦いを脱して落ち延び、京都に潜伏し1632年(寛永9年)に没したとしている。
たしかに島左近の遺体は、大谷吉継の首級とともに見つかっていない。関ヶ原の戦い後に京都で左近を目撃したと称する者が相次いだといわれている。
京都市立本寺には島清興の墓があり関ヶ原の戦い後、逃れてこの寺の僧として、32年後に死去したとされている。位牌や過去帳が塔頭に残され、寛永9年6月26日没などと記されていることが根拠となっている。
静岡県浜松市天竜区に島家の後裔が在住。23代目・島茂雄氏によれば、島清興は島金八と名を変えて百姓に変装し、春になると自身の部下を集めて桜の下で酒宴を催したという。
熊本市の西岸寺には、中興の泰岩和尚は島左近が鎌倉光明寺で出家した後身であり、細川忠興に仕えて小倉に知足寺を建立し、加藤忠広の改易後、細川忠利の肥後入国に際しては、忠利の命を受けて熊本に入り情報収集に努めたという由来記が残っている。
大河ドラマ「真田丸」では玉置孝匡が演じる
大河ドラマ「真田丸」では島左近を玉置孝匡が演じる。
個人的にはSMAP・香取慎吾だと思ったのですが・・・。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
歴史上の武将としても、ゲームのキャラクターとしても島左近を好きな人は大勢いるんじゃないかと思う。
管理人も島左近好きです!
そして島左近が関ヶ原の戦いで死んでなくて、のちも生きたという話もロマンがあって好きです。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。