この記事の所要時間: 約 4分54秒(文字数:2,947文字)
豊臣秀吉の死後、徳川家康は天下への野望を隠さなかった。1599年(慶長4年)には石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件が起きている。今回は徳川家康暗殺疑惑事件を取り上げる。2つの事件に共通しているのは、徳川家康の存在が大きくなったことだ。徳川家康暗殺疑惑事件は家康と本多正信の謀略とも言われている。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
のちの天下人・徳川家康が仕掛けたと言われる徳川家康暗殺疑惑事件について記事投稿をする。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
徳川家康暗殺疑惑事件
1599年(慶長4年)9月9日、徳川家康暗殺疑惑事件なる事件が起きている。
徳川家康が大坂城に登城した際、前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が家康の暗殺を企んでいると、増田長盛・長束正家の両奉行より密告があったとしたという内容である。
長束正家は、はじめ丹羽長秀に仕える。のち秀吉の直参として奉公衆に抜擢。官位は従五位下・大蔵大輔から従四位下・侍従。近江国水口岡山城主。五奉行の末席に名を連ねる。関ヶ原の戦いでは、石田三成方の西軍に味方するが、捕らえられ切腹。管理人にとって長束正家といえば、映画「のぼうの城」で俳優・平岳大さんが演じた長束正家が印象的。
10月2日には以下の裁定がくだった。
- 浅野長政:隠居後、徳川領の武蔵・府中で蟄居。
- 大野治長:下総・結城秀康のもとへ追放。
- 土方雄久:常陸国水戸・佐竹義宣のもとへ追放。
- 前田利長:加賀征伐で脅す。生母・芳春院を江戸に人質として差し出させている。
結城城の築城は結城家の家祖・結城朝光とされる。朝光は小山政光の三男であるが、源頼朝の落胤説が存在する人物でもある。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼしたときに、奥州藤原氏の財宝の大半を朝光に恩賞として与えたとされる。結城家は実際よりも裕福だったようで「結城百万石」とも言われた。「結城合戦」の原因の一つになったのだろうか・・・??
芳春院の人質は、のちの前例となる。
4人は家康支配下に完全に屈服し、関ヶ原の戦いでは東軍として戦うことになる。
徳川家康暗殺疑惑事件自体、本多正信と徳川家康が画策した謀略と言われている。
秀吉死後には、同じ年の1599年(慶長4年)閏3月3日、石田三成襲撃事件も起きている。
いづれの事件の結果も徳川家康は政敵を排除し、豊臣政権内での存在感を大きくしている。
そして翌年の1600年(慶長5年)、会津上杉征伐・石田三成挙兵・関ヶ原の戦いへの流れにつながっていく。
前田利長。父は前田利家。母・芳春院(まつ)。正室・永姫は織田信長の娘。羽柴肥前守、越中少将と呼ばれ、追贈された官位は正二位・権大納言。徳川家康暗殺疑惑事件では、徳川家康に嫌疑をかけられ、あわや「加賀征伐」の手前であった。これら一連は「慶長の危機」と呼ばれる。
大野治長といえば、豊臣秀頼の側近で、淀殿との密通の噂があるくらいしか知りませんでした。やはり母が大蔵卿局だからだろうか。大蔵卿局あっての大野治長だと思う。豊臣家滅亡時の重臣というか舵取りをしていたほどの重要人物である。管理人は「大野修理」のほうがしっくりくる。
本多正信は徳川家康に「友」と呼ばれ、家康・秀忠に仕えた。相模国玉縄藩主。従五位下・佐渡守。本姓は藤原氏。江戸幕府・老中。家康の征夷大将軍就任のため朝廷との交渉に尽力。本願寺内部の対立を利用し分裂させ勢力を弱めている。江戸幕府では権勢を誇る。嫡男・正純に訓戒を残しているが、正純は「宇都宮城釣天井事件」にて失脚している。
太閤・豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は台頭した。ことごとく秀吉の遺命に背いた。勝手に諸大名の屋敷を訪れ、諸大名との縁組を行った。石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件により、政敵・石田三成、前田利長を追い落とした。次のターゲットは、会津の上杉景勝。しかし会津征伐の真の狙いは・・・。
石田三成による徳川家康暗殺計画
石田三成は太閤・豊臣秀吉の死の直後、徳川家康を暗殺しようとしている。
- 1598年(慶長3年)8月19日、三成は五大老・徳川家康を暗殺しようとしている。
- 1598年(慶長3年)8月28日、五大老・毛利輝元と浅野長政以外の四奉行が起請文を交わす。
この起請文には三成の加筆があった。秀頼に逆心するものがあれば起請文に署名した5人が力を合わせるという内容で、秀吉の徒党を組むことを禁じる遺命に反した行為であったのだが・・・。
家康は、三成と対立関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政ら武断派と、豊臣氏に無断で次々と縁戚関係を結んだ。
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。
熊本城築城、賤ヶ岳の七本槍、虎退治、地震加藤などで有名な加藤清正。エピソードが多い武将だ。意外だが、文禄・慶長の役まで大軍を指揮していない。当初から石田三成と対立していたわけではなく、ただの「猪武者」でもないようだ。勇猛果敢な豪将のイメージがあるが最初の官位は従五位下・主計頭である。そこに込めた秀吉の思いとは・・・。
福島正則は羽柴清須侍従などと呼ばれた。幼少期を秀吉の小姓として加藤清正らと育っている。また賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名。朝鮮出兵後は、石田三成らの文治派と対立する。会津征伐に従軍し、小山評定では重要な役割を果たし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利する流れを作った。
「真田丸」第31話「終焉」での徳川家康暗殺
「真田丸」第31話「終焉」で徳川家康暗殺が描かれた。
死期を悟った太閤・豊臣秀吉(小日向文世)は石田三成(山本耕史)に「家康を殺せ」と命令する。
三成(山本耕史)は真田昌幸(草刈正雄)に相談し、昌幸(草刈正雄)が動く。
出浦昌相(寺島進)と本多忠勝(藤岡弘、)の大立ち回りと迫力があるシーンであった。
詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
秀吉は源次郎に「頼む、秀頼を」ではなく「頼む、佐吉を・・・」と言った。この時の秀吉は昔に戻っていたと思う。そして出浦昌相と本多平八郎忠勝の大立ち回り。「終焉」というタイトルにふさわしい放送回であった。「頼む、佐吉を・・・」の言葉に涙した・・・。
「真田丸」では俳優・寺島進が演じてます。寺島進がカッコいいのか、出浦昌相がカッコいいのか・・・。清和源氏信濃村上氏の一族なんですね。甲州透破(忍者)の統率者。「真田丸」でもまさに「素っ破」。織田家が信濃から撤退した後は、真田家に仕えます。子・出浦幸吉は、松代藩の家老になります。
徳川四天王、徳川十六神将である本多平八郎忠勝。上総大多喜藩主、伊勢桑名藩主。官位は従五位下・中務大輔。豪将であり義の人というイメージです。真田昌幸、信繁(幸村)の助命があるからだと思います。生涯57回の戦で一度も負けなかったが、死の数日前、小刀で手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまったことは有名である。
石田三成襲撃事件
前述した石田三成襲撃事件について。
豊臣政権内の武断派の七人(加藤清正・福島正則・細川忠興・浅野幸長・黒田長政・蜂須賀家政・藤堂高虎)が行政を担当する文治派の石田三成を襲撃しようとしたが、徳川家康に仲裁された出来事。
七将・石田三成襲撃事件についての記事を参考にしてみてください。
豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いまでの大きな出来事として「石田三成襲撃事件」がある。徳川家康の仲裁により石田三成は隠居させられます。豊臣政権の武断派と文治派の対立が表面化され、結果的に家康に利用されました。結城秀康は三成を佐和山城まで送り届け、三成から「名刀・正宗」を譲られている。秀康は「石田正宗」と名付け終生愛用。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
大野治長(はるなが) | 真田信繁.com 真田丸ストーリーを語ろう
関連記事
関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。
2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事
1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事
まとめ
好きか嫌いかは別にして、秀吉死後からの徳川家康が天下人へなるまでのステップは見事というしかない。謀臣・本多正信の存在も大きいのだろう。
この事件後、前田家を封じ込めたのは大きい。
大河ドラマ「真田丸」でも描いてほしいものです。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。