1595年(文禄4年)6月末、関白・豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がる。豊臣秀次事件の始まりである。粛清の理由は諸説あり、ハッキリとはわかっていない。秀次が切腹したのは事実であり、秀次の係累は根絶された。そこまでする必要があったのだろうか。聚楽第、近江・八幡山城は破却された。秀次という人物がいなかったかのように・・・。
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出家までした秀次は何故、切腹しなければならなかったのだろうか?謀反の罪ならば、切腹ではなく斬首・磔が定番なのだが・・・。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
目次
豊臣秀次切腹事件
それは突然の出来事だった。
1595年(文禄4年)6月末、関白・豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がる。
太田牛一の「太閤さま軍記のうち」では次のように描写している。
「鷹狩りと号して、山の谷、峰・繁りの中にて、よりより御謀反談合とあい聞こえ候」
鷹狩りを口実にして秀次を中心とする「反秀吉一派」が山中で落ち合って謀議を重ねたというのだ。
- 1595年(文禄4年)7月3日(または6月26日)、聚楽第に石田三成・前田玄以・増田長盛・富田左近などが訪れて真偽を詰問。誓紙の提出を要求。
- 1595年(文禄4年)7月3日、秀次は謀反の疑いを否定。7枚継ぎの誓紙を渡して逆心無きことを誓った。
- 1595年(文禄4年)7月5日、石田三成は、秀次が家臣・白江備後守を毛利輝元に派遣して誓約を交わしたと秀吉に報告。この事実は毛利輝元より申告された。
- 1595年(文禄4年)7月5日、秀吉は「とかく父子間、これかれ浮説出来侍るも、直談なきによれり」として、秀次に伏見城への出頭を命じた。
- 1595年(文禄4年)7月8日、前田玄以・宮部継潤・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊の5名が訪れ、秀次に伏見に出頭するよう催促。
- 1595年(文禄4年)7月8日、秀次の妻妾公達らは捕えられて家臣・徳永寿昌宅に監禁。監視役は前田玄以・田中吉政。
7月5日時点で秀次は事実無根の訴えとして、すぐには応じていない。
宣教師達の所見をまとめた「日本西教史」によれば、5名の使者は五ヶ条の詰問状を示して謀反の疑いで秀次を弾劾。
清洲城に蟄居または伏見に来て弁明するかを命じた。秀次は観念して慈悲を請うために伏見に向かったとされている。
秀次は伏見に到着しても登城も拝謁も許されなかった。木下吉隆(半介)の邸宅にて、上使より「御対面及ばざる条、まず高野山へ登山然るべし」とだけ告げられた。
秀次は剃髪染衣(ていはつぜんえ)の姿で伏見を出発。監視役は木下吉隆・羽田長門守・木食応其(木食興山)。石田三成が2、3百騎の御供は多すぎると指摘。
- 1595年(文禄4年)7月9日、小姓衆11名と東福寺の僧・虎岩玄隆(隆西堂)のみが付き従った。
- 1595年(文禄4年)7月10日、高野山・青巌寺に入る。道意と号して出家。豊臣の姓から豊禅閤(ほうぜんこう)と呼ばれる。
- 1595年(文禄4年)7月11日、秀次の妻妾公達らが丹波・亀山城に移送。
- 1595年(文禄4年)7月12日、秀吉は秀次に対して供廻りの人数や服装の指定、出入りの禁止と監視を指図。事実上の監禁。
1595年(文禄4年)7月13日、「太閤さま軍記のうち」によれば、四条道場にて家老・白江備後守が切腹。妻子も自害。嵯峨野二尊院で熊谷大膳が切腹。摂津国・大門寺で木村常陸介が斬首。
1595年(文禄4年)7月15日、福島正則・池田秀氏・福原長堯の3名の検使が兵を率いて高野山に到着。秀次に賜死の命令を告げた。
秀次は山本主殿助・山田三十郎・不破万作の小姓衆に名だたる刀匠の脇差を与えている。この三名は殉死の切腹。介錯は秀次。
雀部重政の介錯により豊臣秀次が切腹。享年28。
法名は、高野山では善正寺殿高岸道意大居士、菩提寺の瑞泉寺では瑞泉寺殿高厳一峯道意。
辞世は
「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」
秀次の介錯に用いた刀「南都住金房兵衛尉政次」は、兄の雀部六左衛門の子孫に受け継がれて、現在は大阪城の天守閣内・博物館「大阪城天守閣」に寄贈。
青巌寺(現:金剛峯寺)の柳の間は、現在では「関白秀次自刃の間」として知られる。
秀次、関係者の遺体は、高野山奥の院の千手院谷、光台院の裏の山に葬らた。
切腹事件のその後
福島正則は秀次の首だけを検分のために伏見に持ち帰っている。
- 1595年(文禄4年)7月16日、秀吉が秀次の首を検分。満足しない秀吉は、係累の根絶をはかった。
- 1595年(文禄4年)7月16日、秀次の妻妾公達が亀山城より京都・徳永邸に戻される。
- 1595年(文禄4年)8月1日、8月2日に処刑すると通達。
- 1595年(文禄4年)8月2日、三条河原に40メートル四方の堀を掘って鹿垣を結んだ中で処刑。3メートルほどの塚を築いて秀次の首を西向きに据えた。
幼い若君4名と姫君、側室・侍女・乳母ら39名の全員が斬首。
前大納言・菊亭晴季の娘である一の台が最初に処刑された。
助命嘆願の甲斐なく、秀次の側室となったばかりの最上義光の娘・駒姫は、秀次に一度も会うことなく処刑されている。
また淡輪徹斎(淡輪隆重)の娘・小督局との娘で生後1ヶ月であったというお菊は、祖父の弟の子の後藤興義に預けられて助かり、のち真田信繁(幸村)の側室・隆清院となった。
この処刑の難を逃れた人物は若御前(若政所)、真田信繁(幸村)の側室・隆清院、隆清院の姉だけだったと言われる。
この処刑の模様は一般に公開された。観衆の中からは余りに酷いと奉行に対して罵詈雑言が発せられ、見物にきたことを後悔した者もいたと言われる。
大量の遺体はまとめて一つの穴に投じられ、埋め立てた塚の上に秀次の首を収めた石櫃が置かれて首塚が造られた。
首塚の石塔の碑銘には「秀次悪逆」の文字が彫られ、殺生関白の悪評もあってか人々は「畜生塚」「秀次悪逆塚」と呼んだ。
1611年(慶長16年)、鴨川の洪水で放置されていたが、河川改修の際に石版を発見した豪商・角倉了以が供養のために瑞泉寺を建立し、「悪逆」の文字が削られて供養塔として再建。瑞泉寺の由来は戒名「瑞泉寺殿高厳一峯道意」からである。
処刑された眷族
斬首された眷族
- 仙千代丸(享年5)
- 百丸(享年4)
- 十丸
- 土丸
- 露月院(女児)
妻妾
- 一の台
- 於妻御前
- 中納言局
- 於和子の前
- お辰の方
- 於長の前
- 於佐子の前
- 於萬の前
- 於輿免の前
- 於阿子の前
- 於伊萬の方
- 於世智の前
- 小少将の前
- 左衛門の後殿
- 右衛門の後殿
- 妙心寺尼(御伽婆)
- 於宮
- 於菊の前
- 於喝食の前
- 於松の前
- 於佐伊の前
- 於古保の前
- 於仮名の前
- 於竹の前
- 於愛の前
- 於藤の前
- 於牧の前
- 於園の前
- 於杉の前
- 於紋(おあや)(御末衆)
- 東殿(女房)
- 御三末(女房)
- 津保見(不明)
- 於知母(不明、乳母?)
切腹事件の連座者
斬首・切腹・殉死の者たちが多数。
代表的な人物をあげます。
- 前野長康(後見)-中村一氏に預けられ、賜死/蟄居後に自害とする説もある。
- 三好吉房(秀次の父)-改易・流罪。
- 小早川秀秋-改易。丹波亀山城10万石没収。
- 浅野幸長-能登に流罪。のちに復帰。
- 曲直瀬玄朔(延寿院)-流罪。
- 菊亭晴季-流罪。
- 土御門有脩(公卿、陰陽頭)-流罪。
- 土御門久脩(有脩の子、陰陽家)-流罪。
- 滝川雄利-叱責。
処罰されなかった人物
切腹事件において難を逃れた人物。
- 田中吉政-元家老
- 中村一氏-元家老
- 山内一豊-元家老
- 堀尾吉晴-元家老
- 徳永寿昌(家老)-石田三成らの尋問に対し、秀次の罪状を列挙し申し立てたと言われる。
- 大崎長行(木村重茲家臣)-重茲に殉じ追腹を行おうとするが重茲に阻止され、起請文を書かされて実行できず。
- 浅野長政-1593年に事実上失脚し、子・浅野幸長に家督を譲っていたため新たな処分はなし。のちに五奉行として復帰。
- 毛利輝元-事件の発端となった密告を行ったとされる。秀次から多額の借金もしていた。
- 藤堂高虎
- 最上義光-秀次の側室となったばかりの娘・駒姫が事件に連座し処刑。妻の大崎氏は聚楽第蟄居中に急死。
- 細川忠興
- 伊達政宗
最上家、細川家、伊達家らは徳川家康の取り成しで事なきを得た。
切腹事件の影響
秀吉は秀次の縁故の人物を殺し尽くした。まさに何かに取り憑かれたように殺し尽くした・・・。
そればかりか秀吉は秀次の痕跡まで消し去ろうと聚楽第や近江・八幡山城の破却を命じる。聚楽第の堀は埋め戻されて基礎に至るまで徹底的に破壊され、まわりの諸侯の邸宅も同時に取り壊された。
現在の京都には聚楽第の遺構が殆んど残っていない。
秀吉が秀頼のためを思って秀次を切腹させたのかは定かでないが、ただでさえ少なかった豊臣家の親族が少なくなった。秀次は豊臣家の二世世代では唯一の成人した親族だった。
秀次事件に関係し秀吉の不興を買った多くの大名は、徳川家康の助けを受けて難を逃れた。関ヶ原の戦いで徳川方である東軍に属した。
豊臣秀次事件は、朝鮮出兵における文治派と武断派の対立とともに、豊臣家及び豊臣家臣団の亀裂を決定的にした。
豊臣政権に暗い影を落としたことに間違いない・・・。
豊臣秀次事件後、加増された人物
豊臣秀次事件後、なぜか加増されている人物がいる。
- 富田一白-加増後、伊勢・安濃津城5万石(2万石は息子に分地)
- 中村一氏(元家老)-5千石加増
- 山内一豊(元家老)-8千石加増
- 石田三成-加増後、近江・佐和山19万4千石
- 田中吉政(元家老)-3万石加増
などがいる。
豊臣秀次事件の一つに「石田三成諫言説」があります。
だからというわけではないが、事件の関係者の加増は、多少なりとも貢献が評価されたからではないでしょうか。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
近年「秀次は秀吉の命令ではなく、自ら切腹した」なる新説が提唱された。
粛清の理由は諸説あり、ハッキリとしたことはわかっていない。
結果的に豊臣政権に亀裂が入り、徳川家康が力をつけ、関ヶ原の戦いに勝利したのは事実である。
大和大納言・豊臣秀長が、もう少し生きていてくれればと思ってやまない・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。