豊臣秀保(羽柴秀保)。兄は関白・豊臣秀次。母は豊臣秀吉の姉・瑞龍院日秀。正室・おきくは豊臣秀長の娘なので従姉妹になり、秀長は叔父であり養父になる。一時期は関白候補とする資料も残されている。死因については病死となっているが、資料によっては溺死とも書かれている。
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関白・豊臣秀次の弟・豊臣秀保(羽柴秀保)について記事投稿する。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
豊臣秀保
豊臣秀保(とよとみひでやす/とよとみのひでやす)。羽柴秀保(はしばひでやす)。1579年(天正7年)~1595年(文禄4年)4月16日。父は三好吉房。母は瑞龍院日秀(豊臣秀吉の姉)。
幼名は辰千代。改名は羽柴秀保。別名は秀俊。通称は大和中納言、郡山中納言。養父は豊臣秀長。
兄弟は秀次、秀勝。義兄弟は仙丸(のち藤堂高虎の養子)。官位は従三位・権中納言、贈・大納言。
正室はおきく(豊臣秀長の娘)。
戒名は瑞光院花嶽妙喜、瑞光院華嶽春英。
大和中納言
1579年(天正7年)、秀吉の姉・日秀(とも)と木下弥助(三好吉房)の三男として生まれる。幼名は辰千代(たつちよ)。
- 1588年(天正16年)1月8日、侍従に任じられる。
- 1591年(天正19年)1月、叔父・秀長の娘である「おきく」と祝言をあげ、養嗣子として披露。
関白・秀吉の後継者候補となった兄・秀次の連枝として幼少より昇進を重ねた。
祝言をあげた時、叔父・秀長は継嗣がなく死の床に就いていた。秀長が死去すると大和・郡山城主となる。後見役は家老・藤堂高虎と桑山重晴。大和・紀伊2か国を継承し、和泉と伊賀の一部は収公となっている。
従四位下参議・近衛権中将に任じられ、豊臣姓を下賜される。
- 1592年(文禄元年)1月29日または2月7日、従三位・権中納言に任官。「大和中納言」「郡山中納言」と呼ばれた。
- 1592年(文禄元年)文禄の役。名護屋城の普請に参加。
自身は兵1万5千を率いて参陣するが、名護屋城下に陣屋を築いて滞在。
藤堂高虎を名代として配下の諸将は出陣した。紀伊の海賊衆を中心に桑山元晴・一晴、杉若氏宗・無心、堀内氏善らは朝鮮半島南岸で水軍として戦っている。
- 1593年(文禄2年)閏9月25日、高虎と共に下関まで戻り上洛。
- 1594年(文禄3年)2月、吉野の花見。秀吉、秀次、菊亭晴季らと5首ほど和歌を詠む。
「豊太閤三国処置太早計」によれば、秀吉は中国・朝鮮の征服後、日本の関白職に秀保か羽柴秀家(宇喜多秀家)のどちらかを任命するという計画を持っていたと言われている。
豊臣秀保の最期
秀保は1595年(文禄4年)4月16日に急死。享年17。死後、大納言が遺贈。
秀保の死因については諸説あるので数例紹介する。
1740年(元文5年)に書かれた「武徳編年集成」では、死因を横死としている。「武徳編年集成」では、小姓とともに溺死としている。
駒井重勝の「駒井日記」では、疱瘡か麻疹を患っていたとされる。
- 1595年(文禄4年)4月、病気療養の湯治のために大和・十津川へ赴く。
- 1595年(文禄4年)4月10日頃、病状悪化。
- 1595年(文禄4年)4月13日、吉田浄慶から投薬。
- 1595年(文禄4年)4月14日、一時回復。
- 1595年(文禄4年)4月15日、病状悪化。
- 1595年(文禄4年)4月15日、曲直瀬正琳から投薬。
- 1595年(文禄4年)4月16日早暁、病死。
「多聞院日記」では、
- 1595年(文禄4年)4月12日、十津川において、治療のための祈祷。
- 1595年(文禄4年)4月15日、危篤。
- 1595年(文禄4年)4月16日、十津川において死去。
としている。
大和豊臣家は断絶
秀保の正室は秀長の娘・おきくであった。従姉妹になるが、子女をもうけることはできなかった。
秀長の養子・仙丸は藤堂高虎の養子となり、藤堂高吉と名乗っていたため、大和・豊臣家は断絶した。
長兄・秀次や次兄・秀勝と異なり、三兄弟の中で唯一秀保の血筋だけは後世に全く残すことはできなかった。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
急死で享年17ですか。あまりにも早いです。
秀保の死後三ヶ月で豊臣秀次事件。秀吉の養子であった宇喜多秀家・小早川秀秋・結城秀康は他家の当主になっている。
関白候補は豊臣秀頼しかいない。あまりにもタイミングが・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。