加藤清正の死因。二条城での家康と秀頼の会見直後、毒饅頭暗殺説?
加藤清正は、1611年(慶長16年)6月24日に帰国途中の船内で発病し熊本で死去している。帰国というのは、1611年(慶長16年)3月に二条城で徳川家康と豊臣秀頼との会見。それに清正も参加している。時期が時期だけに、家康による暗殺説の噂もある・・・。
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加藤清正は、1611年(慶長16年)6月24日に帰国途中の船内で発病し熊本で死去している。帰国というのは、1611年(慶長16年)3月に二条城で徳川家康と豊臣秀頼との会見。それに清正も参加している。時期が時期だけに、家康による暗殺説の噂もある・・・。
徳川家康が征夷大将軍就任するまでに朝廷内ではスキャンダルが勃発した。結果、徳川家康は「源氏長者」を手に入れる。征夷大将軍が何かとクローズアップされるが管理人は「源氏長者」に注目している。家康以降の徳川将軍家の官位履歴一覧と「武家関白制」にも触れてみる。
木村重成。幼少期から秀頼の小姓として仕えたといわれる。知行は3千石。官位は正四位上・長門守。母の宮内卿局(右京大夫局の説あり)は豊臣秀頼の乳母。豊臣姓を下賜されている。真田丸も木村重成を取り上げるとはシブい!
詩歌・琴・書画など万藝に秀でた才女であったといわれる小野お通。その出自・経歴は謎が多く、推測の域を出ていない。そして小野お通といえば、真田信之を連想してしまう。最終的には側室にはしていないようである。しかし真田信之の次男・信政がお通の娘・宗鑑尼(そうかんに)を側室としている。
大河ドラマ「真田丸」で徳川家康を「徳川内府(だいふ)」と呼んでいたので内大臣について調べてみた。内大臣の唐名は「内府(だいふ)」。太政官に置かれた令外官の一つ。江戸時代以降の内大臣について、そして「令外官」、徳川将軍家の官職についても触れてみる。
太閤・豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は台頭した。ことごとく秀吉の遺命に背いた。勝手に諸大名の屋敷を訪れ、諸大名との縁組を行った。石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件により、政敵・石田三成、前田利長を追い落とした。次のターゲットは、会津の上杉景勝。しかし会津征伐の真の狙いは・・・。
西笑承兌。臨済宗の僧。相国寺承兌とも呼ばれる。号は月甫、南陽。豊臣秀吉や徳川家康の顧問・外交僧的役割を務める。諸法度や外交文書の起草、学問奨励策や寺社行政の立案や、法要などの仏事の運営に重要な役割を果たした。
太閤・豊臣秀吉の死後、朝廷内でスキャンダルがあった。これにより村上源氏である久我敦通・通世親子は失脚。久我(こが)家は村上源氏嫡流で家格は清華家。この時期、源氏長者を独占している。すぐあとに源氏長者は徳川将軍家が独占している。タイミングが良すぎる・・・。
後藤又兵衛(基次)。「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂城五人衆」の一人に数えられた。官位は従六位下・隠岐守。黒田家を出奔したのに「黒田二十四騎」「黒田八虎」に数えられているのが凄い!黒田家を出奔したのは他国の者(細川氏、池田氏)と頻繁に書状を交わすことに原因があったとされる。生存説などは多数で、伝承が多い武将である。
真田信政(さなだのぶまさ)。母は小松姫(本多忠勝の娘)。官位は従四位下・侍従兼大内記。信濃松代藩主。病気療養の父・信之の代わりに兄・信吉とともに大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。豊臣方に敗れ逃走したといわれている。なかなか隠居しないと思い込んでいた父・信之とは対立があったようである。