太閤・豊臣秀吉の最後の大イベント。それが醍醐の花見である。花見に招かれたのは女性ばかりで、秀吉・秀頼の他には前田利家の名が見えるのみ。前田利家の正室・まつのエピソードも有名である。「醍醐花見図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)には花見の想像図が描かれている。
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北野大茶会と双璧をなす醍醐の花見についての記事投稿です。
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それではいってみよう!
醍醐の花見
醍醐の花見(だいごのはなみ)。1598年(慶長3年)3月15日、太閤・豊臣秀吉が最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴。
豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名から配下の女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な催しであった。九州平定直後に催された北野大茶湯と双璧を成す秀吉一世一代の催し物として知られる。
醍醐寺の第80代座主・義演が、一代の華麗な英雄の最後にふさわしい大舞台のために、手配をして醍醐の花見を実現させた。
当時の秀吉は自分の最期が近いことを感じ取っていた。醍醐の花見は秀吉の集大成ともいえる。
これ以降、秀吉は死の床につき、約5か月後に没している。
「醍醐花見図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)には花見の想像図が描かれている。
輿の順番
記録に残る輿の順。
- 北政所
- 西の丸殿(淀殿)
- 松の丸殿
- 三の丸殿
- 加賀殿
- 前田利家の正室・まつ
前田利家の正室・まつ
宴会の席、正室・北政所の次に杯を受けるのを淀殿と松の丸殿が争った。
まつは北政所とは家族ぐるみの長い付き合いであった。
まつが「歳の順から言えばこの私」と申し出ている。
家臣筋といえど、宴会の席では客人。客人をほうっておいて身内で順争いをするものではないとして、その場をうまくおさめたという話が伝わる。
花見の宴
責任者は奉行・前田玄以。
秀吉は下見のために醍醐寺へ頻繁に通い、殿舎の造営や庭園の改修を指揮し、醍醐山の山腹にいたるまで、伽藍全体に700本の桜を植樹した。
花見に招かれたのは女性ばかりで、秀吉・秀頼の他には前田利家の名が見えるのみ。
八番の茶屋が設けられ、茶会・歌会が催され、湯殿のある茶屋もあったといわれる。
女性たちには2回の衣装替えが命じられ、一人3着ずつ着物が新調された。衣装代は2015年現在の39億円に相当する金額である。
醍醐の花見で詠まれた和歌
醍醐の花見で詠まれた和歌の短冊は今も「醍醐花見短冊帖」として三宝院に保管されている。
淀殿が3首詠んだうちのひとつ。
花もまた 君のためにと 咲き出でて 世にならびなき 春にあふらし
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
太閤・豊臣秀吉にとって、醍醐の花見が最後の大イベントになってしまった。
秀吉らしい豪華絢爛な花見であったようだが、豪勢なぶんだけ切なくなるのは何故なんだろう。
死期を悟っていたといわれる太閤・豊臣秀吉は醍醐の花見で何を思い、何を見ていたんだろうか・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。