沼田城址公園。沼田領帰属問題の原因。真田信之により五層の大天守

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交通の要所である沼田城を巡って戦いが繰り返された。天正壬午の乱を経て、沼田領帰属問題が発生。第一次上田合戦と後北条氏の数回の攻撃を真田家は撃退。秀吉の裁定により沼田城は後北条氏が支配する。しかし名胡桃城事件により、小田原征伐。後北条氏は滅亡。そう思うと、なんだかすごい城のように思えてきた・・・。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

名胡桃城から沼田城へ。後北条氏にとっては因縁の城・・・。

今回は沼田城についての記事投稿です。

それではいってみよう!

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沼田城址公園を訪ねて

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正覚寺で小松姫の墓前に手を合わせた後は沼田城址公園へ。正覚寺からは車ですぐ近くです。

沼田城といえば沼田領問題だろうか。天正壬午の乱を経て、関白・豊臣秀吉による沼田領裁定。

それにより名胡桃城事件に発展し、結果的には小田原征伐。後北条氏は滅亡した。

遅くなってしまったが、管理人はどうしても沼田城址を見ておきたかった。

いや見ずにはいられなかった・・・。

沼田城の概要

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沼田城(ぬまたじょう)は、上野国利根郡(現:群馬県沼田市)にあった城。城郭構造は丘城。幾つかの守護城に囲まれた堅城である。

築城主は沼田顕泰。築城年は1532年。戦国時代後期から江戸時代初期にかけて真田氏の沼田領支配の拠点として機能。

沼田藩の藩庁。はじめは倉内城と称した。

主な城主は

  • 沼田氏
  • 本庄秀綱
  • 猪俣邦憲
  • 真田氏

遺構は

  • 土塁
  • 石垣
  • 城門(移築)

現存建物として城門が群馬県川場村に1棟、川場村以外に3棟ほどが移築されている。

再建造物は鐘櫓。

真田氏時代には5層の天守や3層の櫓が建てられたとされる。現在は沼田公園となっている。

沼田城の歴史

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画像は沼田城址にある久米民之助の顕彰碑。

1532年、沼田顕泰により築城され、沼田氏の拠点となる。

  • 1560年以前、沼田氏のお家騒動。山内上杉氏没落と後北条氏による上野進攻。沼田氏はどちらに属すかを巡り争った。
  • 1560年、長尾景虎(上杉謙信)が沼田城を落とす。沼田顕泰は沼田の国人(沼田衆)を率いる立場となる。

沼田氏のお家騒動は、後北条方側が勝った。後北条氏出身の沼田康元が城主となる。疑問視されているが、「加沢記」によると沼田氏のお家騒動は1569年とされる。

景虎により支配された沼田城は、上杉家の「沼田三人衆」と呼ばれる上野家成・河田重親・松本景繁による城代支配となった。

  • 1578年、謙信死後に御館の乱。沼田城は後北条氏が制圧。城代は猪俣邦憲・金子泰清ら。
  • 1578年、甲越同盟。上杉景勝が武田氏の沼田攻略を承認。真田昌幸が攻略の命を受けた。

  • 1580年、昌幸が城代・金子泰清を調略。昌幸の叔父・矢沢頼綱が沼田に攻め入り無血開城。沼田城は武田氏の支配下となる。
  • 1580年、顕泰の子・沼田景義が沼田城奪還を目指して挙兵。景義は後北条方と由良氏の支援を得た。

沼田景義は昌幸の謀略により、泰清に殺害される。沼田氏滅亡。

矢沢薩摩守頼綱。真田幸綱(幸隆)の弟、真田昌幸の叔父。
矢沢頼綱というとドラマの影響からか、俳優・加藤嘉の顔が浮かんでしまう。矢沢頼綱は真田幸綱(幸隆)の弟であり、真田昌幸の叔父になる。特に沼田城代としての功績が大きい。北条氏の攻撃を何度も退けている。矢沢家は真田家臣団の最高位にあり、明治に至るまで筆頭家老であった。知行高は2,000石。
真田家と沼田城。真田信幸(信之)の正室・小松姫の逸話と平八岩。
沼田領問題のもとになる沼田城。交通の要所であり、各大名から見ても真っ先に取得したい城であった。事実、城の支配者は何回か交代する。豊臣秀吉による小田原征伐の火種にもなっている。紆余曲折ありながら、北条家滅亡後は、ふたたび真田家の支配となる。小松姫の逸話と平八岩を紹介しながら、おもに真田家と沼田城についての記事投稿です。

  • 1582年(天正10年)3月、織田信長の甲州征伐により武田氏滅亡。織田家重臣・滝川一益が上野国一国と信濃佐久郡・小県郡を与えられる。
  • 1582年(天正10年)6月、本能寺の変。武田遺領をめぐる「天正壬午の乱」が発生。

滝川一益が上野を支配下としたため、沼田城は滝川家臣・滝川益重の城となる。

滝川一益、神流川の戦いで敗走、清須会議に出席できず。そして晩年
滝川一益、「真田丸」では段田安則が演じてます。管理人の勝手なイメージは、甲賀出身で忍者の匂いもして、鉄砲の名手というひどく荒いイメージでした。本能寺の変後は、羽柴秀吉と柴田勝家にばかりで滝川一益に気がまわりませんでしたw甲賀出身で忍者のイメージは、漫画「花の慶次」の影響です。きっとw織田四天王、織田五大将でもあります。

天正壬午の乱により、沼田城は後北条家に降った真田昌幸の支配となった。

徳川氏と後北条氏の間で沼田領帰属問題が持ち上がる。昌幸はいずれの提案も拒否し、上杉氏の傘下に入る。

のち徳川氏との上田合戦(第一次上田合戦)や後北条氏による度重なる侵攻を招くことになる。いづれも撃退。

真田家から見る沼田領問題。天正壬午の乱から小田原征伐まで。
真田家から見ると沼田領は、重要な領土であった。沼田領問題は、天正壬午の乱から小田原征伐に至るまで、なかなか解決しなかった。真田昌幸が変幻自在に主君をかえながら、なんとか沼田領を死守する。豊臣秀吉の裁定により北条家の領土になるが、北条氏滅亡後は、真田信幸(信之)が城主になることで、ふたたび沼田領は真田家に戻るのである。。
本能寺の変から豊臣秀吉への臣従までの真田昌幸、まさに表裏比興の者
本能寺の変により織田信長を失った真田家。大きな後ろ盾を失った真田家は豊臣秀吉に臣従するまで、たびたび主君を替えながら家の存続を目指す。結果、信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。真田昌幸は数々の苦渋の決断がありながら、真田家の立ち位置を変える。管理人の頭を整理すべく、記事投稿します。。
第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)、真田VS徳川
天正壬午の乱の和睦条件で浮上した沼田領問題。沼田を巡り争う真田家と北条家。真田昌幸が上杉景勝に通じたことにより徳川家康は、真田討伐を決意。第一次上田合戦である。1585年(天正13年)閏8月から同年11月、徳川家譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔したことにより完全に撤退。真田家を討伐することはできなかった。

  • 1589年、関白・豊臣秀吉の裁定により沼田城は後北条氏の支配となる。城代は再び猪俣邦憲。
  • 1589年、邦憲が昌幸の名胡桃城を略奪。名胡桃城事件
  • 1590年、これにより豊臣氏による小田原征伐。後北条氏滅亡。

名胡桃城事件。豊臣秀吉の沼田領裁定~小田原征伐のキッカケとなる
天正17年(1589年)、豊臣秀吉の沼田領裁定により、真田家と北条家が争ってきた沼田領問題は解決したかに見えた。しかし名胡桃城奪取事件は起きた。名胡桃城奪取事件が本当に起きたかどうかは別にして、結果的に小田原征伐は決行された。秀吉の沼田領裁定から名胡桃城奪取事件、そして小田原征伐に至るまでを記事投稿する。

  • 1590年、後北条征伐の戦後処理において、沼田城は昌幸の長男・真田信幸が支配。
  • 1597年、信幸が城郭を整備。

真田信幸(信之)と本多平八郎忠勝の娘、正室小松姫
弟真田信繁(幸村)と違って地味な印象がある真田信幸(信之)。しかし関ヶ原の戦い、大坂の陣を乗り越え真田家を残すのは真田信幸(信之)である。そして信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。その血筋は現在まで残る。信幸(信之)の正室は本多平八郎忠勝の娘、小松姫である。この二人に焦点をあてて記事投稿をします。

  • 1600年、関ヶ原の戦い。東軍についた信幸が上田領も継承。沼田と合わせ9万5千石の上田藩として立藩。
  • 1615年、大坂夏の陣。信之は上田に本拠を移す。沼田城の城主は長男・信吉。

上田藩として立藩したが、本拠地は引き続き沼田城であった。この頃、五層の大天守を築く。

真田信吉。大坂の陣で逃走、松代藩・沼田城主。従五位下・河内守
真田信吉(さなだのぶよし)。母は清音院殿(真田信綱の娘)。官位は従五位下・河内守。信濃松代藩・沼田城主。この時の沼田の所領は独立した藩ではない。病気療養の父・信之の代わりに弟・信政とともに大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。豊臣方に敗れ逃走したといわれている。

  • 1622年、信之が松代藩13万石へ加増移封。沼田領は引き続き真田領。
  • 1638年、信吉の死後、その嫡子である熊之助が跡を継ぐが早世。信之の次男・信政(信澄)が沼田領を継承。

真田信政。真田信幸(信之)の次男、信濃松代藩主。最後は父と対立
真田信政(さなだのぶまさ)。母は小松姫(本多忠勝の娘)。官位は従四位下・侍従兼大内記。信濃松代藩主。病気療養の父・信之の代わりに兄・信吉とともに大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。豊臣方に敗れ逃走したといわれている。なかなか隠居しないと思い込んでいた父・信之とは対立があったようである。

  • 1656年、信之が隠居。松代藩藩主は信政。沼田領は、信吉の子・信利が継承。
  • 1658年、信政が死去。その相続を巡って真田本家と真田信利との間でお家騒動が起こる。沼田騒動。

沼田騒動により、沼田領は沼田藩として独立。初代藩主は信利。

  • 1658年、松代藩への対抗意識から再検地を行う。元来は表高3万石。14万4千石(実質は6万石余)として届ける。
  • 1681年、信利の暴政と、10月納期の江戸両国橋架け替えの用材調達の遅延を理由に改易。沼田藩は廃藩。
  • 1682年、沼田城は破却。堀も埋められる。

  • 1703年、本多正永が入封。沼田藩2万石として再興。のち黒田氏・土岐氏と沼田藩の藩庁として存続。しかし城の本格的な復旧はされていない。
  • 1916年、旧沼田藩士の家の久米民之助が城地を購入。公園として整備。
  • 1926年、沼田市へ寄贈。

現在は沼田公園となっている。

沼田城の遺構

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画像は沼田城本丸堀跡。現在は野球場である二の丸と本丸の間にあった堀。

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平成27年に本丸堀の発掘調査が行われたようです。

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沼田城では数少ない遺構である西櫓台の石垣・石段。

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画像は西櫓台の石段の奥になる石垣。数少ない遺構なので貴重です。

沼田城の現在

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沼田城より名胡桃城を眺める。名胡桃城からも沼田城を眺めました(笑)。

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画像は真田信之像・小松姫像。近年、この像がイタズラをされました。

小松姫(稲姫・小松殿)。真田信幸(信之)の正室、父は本多平八郎忠勝
本多平八郎忠勝の娘からか、「薙刀」を持った逸話からか、気丈なイメージがある小松姫。真田信幸(信之)との夫婦仲は良かったようです。信幸(信之)とは仲々子供ができなかったようで、信幸(信之)に側室をすすめています。真田家には徳川家康の養女として嫁いでます。小松姫といえば沼田城での薙刀で武装している姿ですが・・・。

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画像は再建造物の鐘櫓。沼田城の画像としてよく見る画像です。

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二の丸は、現在は野球場として利用されています。

沼田城址公園の所在地および交通アクセス

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沼田城址公園の所在地。

  • 住所:群馬県沼田市西倉内町594 沼田公園
  • TEL:0278-23-7565

城郭構造は丘城でありますが、高低差を感じずに見ることができます。

平八岩

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沼田城に行ったら、「平八岩」をどうしても見てみたかった。

真田昌幸が沼田平八景義の首実検をしたと言われています。

大河ドラマ「真田丸」紀行で紹介されました。

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沼田平八景義の遺骸は、小沢城に葬られたが、首がここまで飛んできたいう伝承があります。ちょっと平将門っぽいですが・・・。

思ったよりも小さいというのが第一印象でした。勝手にもっと大きな岩を想像してました。

沼田市近辺の史跡

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名胡桃城址。沼田城の支城、歴史を変えた名胡桃城事件。小田原征伐に
行ってみるとよくわかりますが名胡桃城は、両側が切り立った天然の要害である。城郭構造は連郭式の山城。廃城となった後、ほとんど改変を受けていないため、築城当時の遺構が比較的良好に残されている。山城と行っても登山するわけではない。駐車場からはほぼ平城の感覚で見学が可能。名胡桃城といえば「名胡桃城事件」として有名である。
正覚寺。大蓮院殿(小松姫)の墓、鈴木主水が境内で自刃。沼田市鍛冶町
群馬県沼田市鍛冶町の正覚寺。宗派は浄土宗。山号は法蔵山。1612年(慶長17年)、沼田城主・真田信之の正室である小松姫から改めて現在地が境内として認められた。以後、沼田藩からの庇護の対象となる。小松姫(大蓮院殿)の墓は沼田市指定重要文化財。真田家の重臣である名胡桃城代・鈴木主水が境内で自刃したことでも有名。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

沼田城 – Wikipedia

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まとめ

意外に小さかった「平八岩」。

そして首が飛んできたという伝承。

管理人は、この手の話、嫌いではありません・・・。

沼田城に行ったのが、真田丸の終盤だったからでしょうか?もっと人がいるのかと思いましたが、ほとんどいませんでした。

上田城は人がすごいそうですが・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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