羽柴秀吉が織田家臣筆頭を確立した賤ヶ岳の戦い。賤ヶ岳の七本槍

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清州会議以降、羽柴秀吉と柴田勝家の対立は、日を追うごとに激しさを増していた。賤ヶ岳の戦いで両雄が激突。羽柴秀吉が大勝利し、織田信孝・柴田勝家を自害に追い込み、滝川一益を降伏されている。秀吉は織田家臣筆頭の地位を確立。表面上は三法師を奉じて、実質的に織田家中を牛耳る。これ以降、秀吉は天下人への階段を駆け上がるのである!

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

賤ヶ岳の戦いによる勝利により、羽柴秀吉は織田家臣筆頭の地位を確立する。そう秀吉は表面上、あくまで織田家臣なのである・・・。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します(笑)。

それではいってみよう!

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羽柴秀吉、柴田勝家の和睦交渉

1582年(天正10年)6月27日の清州会議以降、羽柴秀吉と柴田勝家の対立は、日を追うごとに激しさを増していた。

1582年(天正10年)10月16日、柴田勝家は堀秀政に覚書を送っている。内容は秀吉の清洲会議の誓約違反、及び不当な領地再分配、山崎・宝寺城の築城を非難するものである。

1582年(天正10年)11月、いったん勝家は秀吉と和睦するために前田利家・金森長近・不破勝光を秀吉のもとへ派遣している。勝家の領地は冬には雪深くなる越前・北ノ庄であることからの「みせかけの和睦」であった。

しかし秀吉には見ぬかれており、前田利家・金森長近・不破勝光には秀吉の調略の魔の手が伸びている。

1582年(天正10年)10月20日付の堀秀政宛の秀吉書状の宛名で「羽柴の名字」が使用されている。これにより秀吉が織田家臣の切り崩しを始めていたことがわかる。そして羽柴家以外の人物に「羽柴」が使用された最初であると確認されている。

清州会議。羽柴秀吉と柴田勝家の命運を分けた織田家宿老会議
清州会議によって羽柴秀吉と柴田勝家の立場は逆転した。逆臣・惟任(明智)日向守光秀を秀吉が討ったことが大きいのだろう。筆頭家老・勝家の影響力は低下し、秀吉が重臣筆頭の地位を確立して、織田家の勢力図は大きく変化した。勝家は秀吉によって滅ぼされ、天下取りへの道を駆け上がった。織田家の後継者決定、領地再分配を目的とした会議。

羽柴秀吉の挙兵

1582年(天正10年)12月、羽柴秀吉は柴田勝家が雪で動けなくなるのを待っていた。織田信孝が三法師を安土に戻さないことを大義名分に挙兵する。

  • 12月9日、秀吉は諸大名に動員令を発動し、5万の大軍で宝寺城から出陣。
  • 12月11日、堀秀政の佐和山城へ入城。柴田勝豊の長浜城を包囲し、数日で降伏させている。
  • 12月16日、秀吉は美濃に侵攻し、織田信雄の合流などにより兵力を増強している。織田信孝の家老・斎藤利堯が守る加治木城を落城させている。

孤立した岐阜城の信孝は降伏。三法師を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として信孝は秀吉と和議締結。

長浜城。別名は今浜城。羽柴秀吉が小谷城攻めの功績により拝領。三献の茶
長浜城の別名は今浜城。というかもとは今浜という名称で、羽柴秀吉が城主になって織田信長の名から一字拝領し長浜に改名。室町時代初期、佐々木道誉の出城が元と伝わる。羽柴秀吉が小谷城攻めの功績により拝領。本格的に羽柴秀吉が最初に築いた居城でもある。

滝川一益の挙兵

1583年(天正11年)1月、反羽柴秀吉派の一人であった伊勢の滝川一益が柴田勝家への旗幟を明確にして挙兵。岡本良勝の伊勢・峰城、関城や関盛信の伊勢・亀山城を落とした。

2月10日、羽柴秀吉が北伊勢に侵攻。2月12日、一益の居城・桑名城を攻撃したが、桑名城の堅固さと一益の抵抗にあって、一時後退。

3月3日、蒲生氏郷・細川忠興・山内一豊らの攻撃で伊勢・亀山城が降伏。が、伊勢の状況は反秀吉方が優勢であった。

滝川一益、神流川の戦いで敗走、清須会議に出席できず。そして晩年
滝川一益、「真田丸」では段田安則が演じてます。管理人の勝手なイメージは、甲賀出身で忍者の匂いもして、鉄砲の名手というひどく荒いイメージでした。本能寺の変後は、羽柴秀吉と柴田勝家にばかりで滝川一益に気がまわりませんでしたw甲賀出身で忍者のイメージは、漫画「花の慶次」の影響です。きっとw織田四天王、織田五大将でもあります。

賤ヶ岳の戦い

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1583年(天正11年)2月末、柴田勝家は雪解けを待たずに羽柴秀吉に対して挙兵を決断する。

  • 2月28日、勝家方・前田利長が先手として出陣。
  • 3月9日、勝家が3万の軍勢で越前・北ノ庄城を出陣。
  • 3月11日、秀吉が近江で勝家と対峙。情勢不安な北伊勢は蒲生氏郷に任せている。
  • 4月13日、秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が勝家方に寝返る。織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻める。信孝の人質は処刑された。はじめは勝家方が優勢。
  • 4月20日、勝家の重臣・佐久間盛政は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃に赴いた隙を突いて奇襲し成功。大岩山砦の中川清秀は敗死、岩崎山砦の高山重友は敗走。
  • 4月21日、中国大返し同様、美濃から迅速に引き返してきた「美濃大返し」により秀吉が反撃、さらに前田利家らの裏切りもあって柴田軍は大敗。柴田勝家は越前に撤退する。
  • 4月24日、勝家は越前・北ノ庄城で正室・お市の方と共に自害。
  • 5月2日、織田信孝も自害。滝川一益も降伏。

秀吉は加賀・能登も平定し、前田利家に与えている。柴田勝家の領地・越前は丹羽長秀に与えられ、摂津・大坂の池田恒興は美濃を与えられた。摂津・大坂は秀吉が接収している。

羽柴秀吉は織田家の実力者たちを葬ったことにより、秀吉は織田家臣筆頭の地位を確立。表面上は三法師を奉じて、実質的に織田家中を牛耳る。

これ以降、秀吉は天下人への階段を駆け上がるのである!

賤ヶ岳の七本槍

羽柴秀吉方で功名をあげた兵のうち以下の7人は後世に「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」と呼ばれている。

  • 福島正則
  • 加藤清正
  • 加藤嘉明
  • 脇坂安治
  • 平野長泰
  • 糟屋武則
  • 片桐且元

実際に感状を得、数千石の禄を得たのは桜井佐吉、石川兵助一光も同様である。7人というのは語呂合わせで、七本槍以外にも石田三成や大谷吉継、一柳直盛も含めた羽柴家所属の14人の若手武将が最前線で武功を挙げたと記録されている。

「賤ヶ岳の七本槍」は譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果ともいえる。

加藤清正。賤ヶ岳の七本槍だが、従五位下主計頭に込めた秀吉の思い
熊本城築城、賤ヶ岳の七本槍、虎退治、地震加藤などで有名な加藤清正。エピソードが多い武将だ。意外だが、文禄・慶長の役まで大軍を指揮していない。当初から石田三成と対立していたわけではなく、ただの「猪武者」でもないようだ。勇猛果敢な豪将のイメージがあるが最初の官位は従五位下・主計頭である。そこに込めた秀吉の思いとは・・・。
平野長泰。賤ヶ岳の七本槍のひとりだが、唯一人大名になれていない
「真田丸」で平野長泰が登場するとは思っても見なかった。賤ヶ岳の七本槍のひとりだが、唯一人大名になれていない。平野氏は鎌倉幕府の執権・北条氏の庶流の子孫、父・長治は清原業賢の子(清原宣賢の孫)とする説がある。秀吉からは大和国・十市郡田原本近隣七ヶ村に5千石の知行を与えられ、従五位下・遠江守に叙任。豊臣姓を下賜。
福島正則。羽柴清須侍従、広島城改修などが原因で晩年は改易
福島正則は羽柴清須侍従などと呼ばれた。幼少期を秀吉の小姓として加藤清正らと育っている。また賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名。朝鮮出兵後は、石田三成らの文治派と対立する。会津征伐に従軍し、小山評定では重要な役割を果たし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利する流れを作った。
片桐且元。賤ヶ岳の七本槍と称され、豊臣家家老。のち徳川家に出奔
片桐且元といえば賤ヶ岳の七本槍であり、豊臣政権の奉行職を歴任した。豊臣家家老にまでなっている。片桐氏は信濃源氏の名族であり、官位は従五位下・東市正(ひがしのいちのかみ)。豊臣姓まで下賜されている。同じ豊臣恩顧の加藤清正・福島正則の様なイメージはない。通称は助佐・助作。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

賤ヶ岳の戦い – Wikipedia

豊臣秀吉 – Wikipedia

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

「賤ヶ岳の戦い」って織田家の内紛です。朝廷も高みの見物をしてます。朝廷が秀吉に官位をと言い出すのは翌年の小牧・長久手の戦い終了間際です。

最初は「従五位下・左近衛権少将」の叙位任官、わずか一月半後「従三位・権大納言」を一気に叙位任官。

信長燃ゆを観賞のため織田信長の官位を調べてみた
2016年1月2日に放映される「信長燃ゆ」を見るにあったて、織田信長の官位を整理したく思い調べてみた。近衛前久との関係から管理人の頭を整理すべく、織田信長の官位を見なおしてみました。「上総介」は自称だろうと思っていたのですが、まさか「尾張守」の書簡が残っていたなんて。。それも大正時代に「正一位」を贈位されてたなんて。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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