長束正家。丹羽長秀に仕え、秀吉の直参に。五奉行の末席に加わる。

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長束正家は、はじめ丹羽長秀に仕える。のち秀吉の直参として奉公衆に抜擢。官位は従五位下・大蔵大輔から従四位下・侍従。近江国水口岡山城主。五奉行の末席に名を連ねる。関ヶ原の戦いでは、石田三成方の西軍に味方するが、捕らえられ切腹。管理人にとって長束正家といえば、映画「のぼうの城」で俳優・平岳大さんが演じた長束正家が印象的。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

五奉行の一人である長束正家について記事投稿する。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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長束正家

長束正家(なつかまさいえ/ながつかまさいえ)。1562年(永禄5年)?~1600年(慶長5年)10月3日。父は長束盛里(水口盛里)。母は不明。

豊臣政権の五奉行の一人。近江国水口岡山城主。

仮名は新三郎、利兵衛。兄弟は直吉、玄春。

正室:栄子(本多忠勝の妹)。子は助信、長吉、祐順、還誉岌閑、娘(青山正次室)。

墓所は安乗寺(滋賀県蒲生郡日野町)。戒名は大心院殿速成居士。

本多平八郎忠勝。小松姫の実父であり、徳川四天王、徳川十六神将
徳川四天王、徳川十六神将である本多平八郎忠勝。上総大多喜藩主、伊勢桑名藩主。官位は従五位下・中務大輔。豪将であり義の人というイメージです。真田昌幸、信繁(幸村)の助命があるからだと思います。生涯57回の戦で一度も負けなかったが、死の数日前、小刀で手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまったことは有名である。

秀吉近臣~水口城主

1562年(永禄5年)、水口盛里(長束盛里)の長男として近江国栗太郡長束村(尾張国説?)で誕生。

本姓は大蔵氏といわれる。天正年間は水口氏で、居城・水口城が落城のため長束村に在し、その地名より「長束」を称したとの記録がある。

熊本藩では、正家の父・盛里までを水口氏とし、正家以降を長束氏として記録。

はじめは丹羽長秀に仕えた。丹羽氏は大減封処分を受けた。財政上不正があったと糾弾され、正家は帳簿を証拠として提出。

のち秀吉直参の家臣となる。

  • 1585年(天正13年)、秀吉の奉公衆に抜擢。高い算術能力を買われて財政を一手に担う。
  • 1586年(天正14年)、九州征伐。

正家は、豊臣氏の蔵入地の管理、太閤検地の実施に貢献。

  • 1586年(天正14年)、正室に本多忠勝の妹・栄子を迎える。
  • 1589年(天正17年)、長男・半右衛門助信が誕生。

「北野社家日記」によれば、半右衛門には山中三十郎を家老にしている。

  • 1590年(天正18年)正月13日、徳川秀忠が豊臣氏の人質として上洛。出迎えの任に当たる。
  • 1590年(天正18年)、小田原征伐。兵糧奉行として20万石の兵糧を輸送。

小田原征伐においては、小田原周辺において米3万石を買占め小田原城の兵糧攻めに貢献している。

忍城の戦いでは、家臣の家所帯刀、臼杵平四郎、一宮善兵衛、有坂宮内、増田新次郎らが武功を立てている。

徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源
徳川秀忠は地味な印象を与えてしまう。関ヶ原の戦いに遅れたことが目立つが、調べていくと秀忠のイメージが変わった。遅参に関しても諸説があり、一概に秀忠だけを責めることはできない。それよりも征夷大将軍への就任、以降に行ったことは徳川政権が長期的に続いたことを考えると果たした役割は大きい。
のぼうの城、石田三成が落とせなかった行田市忍城と成田氏
映画「のぼうの城」を見る機会があったので、行田市忍城について調べました。おもに成田氏と忍城の戦いについての記事投稿をします。忍城の戦いは日本三大水攻めの一つに数えられる。石田三成が落城させることができなかったあの戦いである。つけくわえるならば豊臣秀吉の小田原攻めの最中の戦いである。忍城を治めていたのが成田氏です。

文禄・慶長の役では肥前名護屋に在陣し兵糧奉行を務める。

1594年(文禄3年)2月、中川秀成の豊後入封に際し隣接する蔵入地代官・太田一吉に協力を求めて戦乱によって荒廃した農村の再建、逃亡した農民の還住策を指示。

同時期の伏見城の造営にも参画している。

  • 1595年(文禄4年)、近江・水口城5万石を拝領。五奉行の末席。
  • 1597年(慶長2年)、12万石に加増。従五位下・大蔵大輔から従四位下・侍従に昇任。

五大老・五奉行。豊臣政権での合議制、対徳川家康の意味あいが強い
1595年(文禄4年)に起きた豊臣秀次事件は豊臣政権に政治危機をもたらした。秀吉の嫡男・秀頼も幼少である。そこで秀吉は、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図る。秀吉起死回生の策「五大老・五奉行」制度は上手くいくはずだった・・・。

のちに家松山大徳寺となる浄慶寺に保護を加えた。この縁故により後、遺児が同寺に迎えられ三世門跡・還誉岌閑となる。

関ヶ原の戦い

長束正家。丹羽長秀に仕え、秀吉の直参に。五奉行の末席に加わる。,画像01

長束正家は、秀吉没後は石田三成方に味方、徳川家康打倒の謀議に参加。家康の伏見城入城を阻止できず、前田玄以と共に家康に会津征伐の中止を嘆願したが聞き入れられていない。

息子と家臣が水口にて会津征伐へ向かう家康の暗殺を謀っているとの噂が立ったが、甲賀衆・篠山景春の通報によって家康は城下を素通りした。

会津征伐。直江状により上杉征伐を決意、関ヶ原の戦いの幕開け
太閤・豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は台頭した。ことごとく秀吉の遺命に背いた。勝手に諸大名の屋敷を訪れ、諸大名との縁組を行った。石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件により、政敵・石田三成、前田利長を追い落とした。次のターゲットは、会津の上杉景勝。しかし会津征伐の真の狙いは・・・。
石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。

1600年(慶長5年)、三成らと毛利輝元を擁立して挙兵。

開戦当初、山崎家盛に欺かれ、池田輝政の妻子を大坂城に人質として抑留することに失敗。

伏見城の戦いでは、陣代・家所帯刀、武者奉行・伴五兵衛らを将として伏見城攻めに兵を送り、家臣の甲賀衆・鵜飼藤助の働きによって城内の甲賀衆を寝返らせることに成功、城を落城に導く功をあげている。

鳥居元忠。秀吉からの官位を断る家康への忠義、伏見城の戦いで戦死
忠義の三河武士・鳥居元忠。徳川十六神将。豊臣秀吉からの官位の推挙は固辞。下総香取郡矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖。1600年(慶長5年)、伏見城の戦いで壮絶な最期をとげている。家康は伏見城の血染め畳を江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせている。伏見城の床板は「血天井」として現在も伝わる。

1600年(慶長5年)8月下旬、安濃津城の戦い。伊勢・安濃津城を攻略。しかし伊勢方面の戦いでは少数の敵船団を家康の本隊と誤認して退却する失態を犯す。

弟・直吉に水口岡山城の守備を任せて大垣城へ進軍。

関ヶ原の戦い本戦では毛利秀元・吉川広家とともに南宮山(岐阜県不破郡)に布陣。合戦前は浅野隊と南宮神社付近で交戦、池田輝政隊と銃撃戦を展開。

広家の妨害のため、秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加できず(宰相殿の空弁当)、西軍が壊滅すると撤退した。

長宗我部盛親。関ヶ原では戦闘に参加できず、寺子屋で生計を立てる
管理人が思う長宗我部盛親は少し可哀想な人物である。特に関ヶ原の戦いなのだが、結果だけ見ると成り行き上、西軍として参加している。本戦でも「宰相殿の空弁当」でも有名な毛利秀元、東軍に内応した吉川広家のせいで動くに動けなかった。戦闘自体に参加できていない。そんな長宗我部盛親の最期は立派であったと伝わる。
宰相殿の空弁当。毛利家は関ヶ原の戦いで、戦わず弁当とは?
関ヶ原の戦いでの西軍敗北の要因を考えた時、「小早川秀秋の裏切り」「宰相殿の空弁当」は大きな原因といえる。そのどちらにも毛利家一門が関わっているのが面白いといえば面白い。成り行き上、西軍に参加した長宗我部盛親は可哀想である・・・。

戦場離脱後は、居城・水口城を目前に山岡道阿弥率いる軍勢の攻撃を受けて敗走。弟・玄春は捕らえられ処刑。

正家は松田秀宣の活躍で入城に成功。しかし寄せ手の亀井茲矩・池田長吉に本領の安堵を約束され、城から出たところ欺かれ捕縛。

重臣・嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞以下6人も入城した池田軍に捕縛されている。

正家は弟・直吉と共に家臣・奥村左馬助の介錯で切腹。享年39。

首は京都三条橋で晒され、財産は池田長吉に奪われたという。

重臣6名も同日、近江日野で切腹。

長束正家の子孫

弟・直吉の子孫は浅野家に仕えたといわれる。

常陸水戸藩の支藩である陸奥守山藩主・松平頼平は正家の遺物である「村正」の刀を愛蔵していたという。

刀の由来書によると正家の子孫に佐野と苗字を改めて、泉州・岸和田の岡部家に仕えた者がいたと言われる。

大河ドラマ「真田丸」では木津誠之が演じる

大河ドラマ「真田丸」では長束正家を木津誠之が演じる。

管理人にとって長束正家といえば、映画「のぼうの城」の平岳大さんを思い出す。

横柄な態度で、成田長親(野村萬斎)以下を怒らせ、籠城されてしまう。あの「長束正家(平岳大)」だ。

そして平岳大さんは、真田丸で武田勝頼を演じていた。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

長束正家 – Wikipedia

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2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

長束正家の官位は、従五位下・大蔵大輔だと思ってました。ちゃんと従四位下・侍従に昇任してたんですね。

知らなかった。これだけでも調べた甲斐があった。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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