小松姫(稲姫・小松殿)。真田信幸(信之)の正室、父は本多平八郎忠勝

小松姫(稲姫・小松殿)。真田信幸(信之)の正室、父は本多平八郎忠勝,アイキャッチ画像
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本多平八郎忠勝の娘からか、「薙刀」を持った逸話からか、気丈なイメージがある小松姫。真田信幸(信之)との夫婦仲は良かったようです。信幸(信之)とは仲々子供ができなかったようで、信幸(信之)に側室をすすめています。真田家には徳川家康の養女として嫁いでます。小松姫といえば沼田城での薙刀で武装している姿ですが・・・。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

管理人は小松姫といえば薙刀をもってるイメージしかありませんが。どうなんでしょうか?・・・

それではいってみよう!

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小松姫

小松姫(こまつひめ)。1573年(天正元年)~1620年(元和6年)2月24日。父は徳川重臣・本多平八郎忠勝で長女。母は側室・乙女。

幼名は稲姫(いなひめ)、於小亥(おねい)。真田信幸(信之)の正室。

兄弟はもり姫(奥平家昌室)、本多忠政、本多忠朝。子は信政、信重、まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)。

墓所は鴻巣市勝願寺、沼田市正覚寺、上田市芳泉寺。長野県長野市松代町松代の大英寺に霊廟がある。戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。

本多平八郎忠勝。小松姫の実父であり、徳川四天王、徳川十六神将
徳川四天王、徳川十六神将である本多平八郎忠勝。上総大多喜藩主、伊勢桑名藩主。官位は従五位下・中務大輔。豪将であり義の人というイメージです。真田昌幸、信繁(幸村)の助命があるからだと思います。生涯57回の戦で一度も負けなかったが、死の数日前、小刀で手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまったことは有名である。
真田信政。真田信幸(信之)の次男、信濃松代藩主。最後は父と対立
真田信政(さなだのぶまさ)。母は小松姫(本多忠勝の娘)。官位は従四位下・侍従兼大内記。信濃松代藩主。病気療養の父・信之の代わりに兄・信吉とともに大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。豊臣方に敗れ逃走したといわれている。なかなか隠居しないと思い込んでいた父・信之とは対立があったようである。

真田信幸(信之)の正室

真田信幸(信之)と本多平八郎忠勝の娘、正室小松姫,アイキャッチ画像

1586年(天正14年)頃、真田信幸(信之)に嫁ぐ。徳川家康の養女となり真田家に嫁いでいる。

嫁いだ年代は、1589年(天正17年)、1590年(天正18年)の説がある。

第一次上田合戦の真田家の軍略に惚れた本多平八郎忠勝が真田家を取り込むため、家康に自らの娘を嫁がせることを提案。

家康も第一次上田合戦後に面会した信幸(信之)の器量に惚れ、自陣営の武将として取り込んでおきたいという思いがあったので忠勝の提案を快諾。

小松姫を自らの養女として、真田家へ嫁がせることとしたようである。家康ではなく秀忠の養女という説もある。

側室との仲も良好で、自身になかなか子どもが出来ないと分かると信幸(信之)に側室を取ることをすすめた。

「小野お通」の存在は知っていたようで、病に倒れ亡くなる前に「そろそろ京の人を迎えてみてはどうですか?」と言ったといわれている。

1620(元和6年)、病にかかり江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中、武蔵鴻巣で亡くなる。

真田信幸(信之)と本多平八郎忠勝の娘、正室小松姫
弟真田信繁(幸村)と違って地味な印象がある真田信幸(信之)。しかし関ヶ原の戦い、大坂の陣を乗り越え真田家を残すのは真田信幸(信之)である。そして信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。その血筋は現在まで残る。信幸(信之)の正室は本多平八郎忠勝の娘、小松姫である。この二人に焦点をあてて記事投稿をします。
第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)、真田VS徳川
天正壬午の乱の和睦条件で浮上した沼田領問題。沼田を巡り争う真田家と北条家。真田昌幸が上杉景勝に通じたことにより徳川家康は、真田討伐を決意。第一次上田合戦である。1585年(天正13年)閏8月から同年11月、徳川家譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔したことにより完全に撤退。真田家を討伐することはできなかった。
小野お通。詩歌・琴・書画などに秀でた才女、真田信之との関係?
詩歌・琴・書画など万藝に秀でた才女であったといわれる小野お通。その出自・経歴は謎が多く、推測の域を出ていない。そして小野お通といえば、真田信之を連想してしまう。最終的には側室にはしていないようである。しかし真田信之の次男・信政がお通の娘・宗鑑尼(そうかんに)を側室としている。

小松姫の逸話

真田信幸(信之)と本多平八郎忠勝の娘、正室小松姫,画像01

関ヶ原の戦いの直前、真田昌幸、信幸(信之)、信繁(幸村)は下野犬伏で真田家のこれからを話し合った。結果、昌幸・信繁(幸村)が石田三成方、信幸(信之)が徳川家康方と真田家は二分した。

昌幸は会津上杉征伐からの上田への帰り途中、沼田城の小松姫に「孫に会いたい」というが、薙刀を持って武装している小松姫は拒否する。

夫の真田信幸(信之)が不在だったこともあるが、「敵味方に分かれているから」という理由である。昌幸は、すきあらば沼田城を乗っ取るつもりだったとさえいわれている。

ドラマ等で描かれている小松姫の有名なシーンであり逸話である。

犬伏の別れ。関ヶ原の戦いを前にした真田父子の別れ
関ヶ原の戦いを前に、下野国犬伏(現在の佐野市)で真田昌幸、信幸、信繁父子は話し合いをする。信幸が徳川方、昌幸と信繁が豊臣方に分かれて戦うことを決断。「犬伏の別れ」である。どちらが勝っても真田の家が残るようにと言われている。信幸(信之)の正室の養父は徳川家康であり、信繁(幸村)の正室の父は大谷刑部少輔吉継であるのだか。
真田家と沼田城。真田信幸(信之)の正室・小松姫の逸話と平八岩。
沼田領問題のもとになる沼田城。交通の要所であり、各大名から見ても真っ先に取得したい城であった。事実、城の支配者は何回か交代する。豊臣秀吉による小田原征伐の火種にもなっている。紆余曲折ありながら、北条家滅亡後は、ふたたび真田家の支配となる。小松姫の逸話と平八岩を紹介しながら、おもに真田家と沼田城についての記事投稿です。
第二次上田合戦、犬伏の別れにより真田父子が東軍・西軍に
第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)から15年。真田家と徳川家は上田城を舞台に再び激突した。真田昌幸の嫡男・信之は徳川秀忠方である。第一次上田合戦に続いて第二次上田合戦も真田家の勝利。秀忠は関ヶ原本戦には遅参。が関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わる。真田昌幸・信繁(幸村)は高野山に流罪。のちに九度山に流罪になる。

大蓮院殿(小松姫)の墓所

勝願寺。小松姫・仙石秀久の墓、三つ葉葵を許される。鴻巣市本町,画像02

小松姫の墓参りに行ってきました。

詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

勝願寺。小松姫・仙石秀久の墓、三つ葉葵を許される。鴻巣市本町
埼玉県鴻巣市本町の勝願寺。宗派は浄土宗。浄土宗の関東十八檀林の1つ。徳川家康から「三つ葉葵」の使用を許されている。二世住職・円誉不残上人は後陽成天皇から、僧としては最高位の「紫衣」を与えられた。真田家・仙石家・丹後田辺城主・牧野家の墓所がある寺院としても有名。
正覚寺。大蓮院殿(小松姫)の墓、鈴木主水が境内で自刃。沼田市鍛冶町
群馬県沼田市鍛冶町の正覚寺。宗派は浄土宗。山号は法蔵山。1612年(慶長17年)、沼田城主・真田信之の正室である小松姫から改めて現在地が境内として認められた。以後、沼田藩からの庇護の対象となる。小松姫(大蓮院殿)の墓は沼田市指定重要文化財。真田家の重臣である名胡桃城代・鈴木主水が境内で自刃したことでも有名。

真田丸では吉田羊が演じる

大河ドラマ「真田丸」では稲姫(小松姫)を吉田羊が演じている。

イメージ通りですね。

吉田羊演じる稲姫(小松姫)に期待です!

1985年NHKドラマ「真田太平記」では紺野美沙子が演じている。

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

「真田丸」では違った小松姫も期待したいんですが、どうなんでしょうか?

予告では薙刀を持っていましたが・・・。

吉田羊の演技力にも期待してます!

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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