真田信幸(信之)と本多平八郎忠勝の娘、正室小松姫

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弟真田信繁(幸村)と違って地味な印象がある真田信幸(信之)。しかし関ヶ原の戦い、大坂の陣を乗り越え真田家を残すのは真田信幸(信之)である。そして信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。その血筋は現在まで残る。信幸(信之)の正室は本多平八郎忠勝の娘、小松姫である。この二人に焦点をあてて記事投稿をします。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

真田家を題材としたドラマ「真田丸」「真田太平記」がある。真田信幸(信之)役は、2016年NHK大河ドラマ「真田丸」では大泉洋が演じ、1985年NHKドラマ「真田太平記」では渡瀬恒彦が演じている。

そして小松姫役は、2016年NHK大河ドラマ「真田丸」では吉田羊が演じ、1985年NHKドラマ「真田太平記」では紺野美沙子が演じている。

それではいってみよう!

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真田信幸(信之)

1566年(永禄9年)、武藤喜兵衛(後の真田昌幸)の長男として誕生。真田氏は信濃国小県郡の国衆で、信之の祖父幸綱(真田幸隆)が甲斐の武田家に臣従して家臣団となる。

最初、父・武藤喜兵衛(後の真田昌幸)は武田家の親族衆である武藤家を継承していた。が1575年(天正3年)の長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田家の家督を継ぎ、「真田姓」に復姓した。

真田家の祖、真田幸隆と真田昌幸親子の官位を調べた!
真田家の祖といわれる真田幸隆、真田昌幸親子の官位について調べてみました。真田幸隆は息子3人とともに「武田二十四将」の一人にかぞえられる。また戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれている。そして「真田丸」で描かれてる真田昌幸親子の官位という視点から記事を投稿します。

武田家人質

真田信幸(信之)は母の山手殿と一緒に、武田家人質として過ごす。

しかしこの時代、真田信幸(信之)だけでなく家臣の家族は主君の人質として暮らすのが通例である。なにも真田家に限ったことではない。ごく当たり前のことである。

ちなみに真田信繁(幸村)は、上杉家、豊臣家の人質となっています。

真田丸、真田信繁(幸村)と六文銭
2016年1月10日から放映される大河ドラマ「真田丸」を見るにあったて、真田信繁(幸村)を調べてみた。近年ゲームキャラクターとしての真田幸村は凄まじい人気です。「真田十勇士」などの人気も手伝ってキャラクターが実際の真田幸村を超越してるように思われます。こんなこというと夢を壊すようですが。。
真田信繁(幸村)、上杉景勝の人質~豊臣秀吉の人質へ
真田信繁(幸村)の上杉景勝の人質から秀吉の人質になるまでをまとめてみました。徳川家との決別により真田家は信繁(幸村)を人質として上杉家に臣従する。第一次上田合戦を経て、信繁(幸村)は上杉家から秀吉の人質となり、真田家は天下人・秀吉に臣従します。人質と言っても上杉家・豊臣家での信繁(幸村)の待遇は良かったようです。

真田家独立

1582年(天正10年)3月に武田家が織田信長の武田征伐によって武田家滅亡。信幸は、母の山手殿とともに人質から開放される。

真田家は織田信長に臣従し、本領を安堵される。が1582年(天正10年)6月に「本能寺の変」により織田信長が横死すると、甲斐、信濃の武田遺領を巡る「天正壬午の乱」が発生。

真田家は、いったんは北条氏に臣従の構えを見せる。しかし徳川家康に臣従した武田遺臣依田信蕃や叔父の真田信尹らの誘いにより、沼田城を北条方から奪還し、真田家は北条氏と敵対。

徳川家家臣

真田家は、一時的に家康に臣従して上杉軍と交戦する。しかし1585年(天正13年)、徳川・北条同盟による上野沼田領の割譲を巡る家康からの要求を拒絶し、再び上杉氏に臣従する。

第一次上田合戦により、信幸は昌幸に従い、徳川軍と戦う。その後、昌幸は上杉景勝を介して豊臣秀吉に臣従。1589年(天正17年)には家康とも和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名となった。

信幸の才能を高く評価した家康は重臣の本多忠勝の娘・小松姫を養女とし、駿府城に信幸を出仕させて娶らせる。形式的にも真田信幸(信之)の養父は、徳川家康になった。

沼田領が真田家に復帰すると、沼田城主となる。父昌幸の上田を本家、真田信幸(信之)の沼田を分家とすることが決まる。真田信幸(信之)は真田家の嫡男でありながら、分家とは。

上田の真田昌幸、信繁(幸村)の後ろ盾は、豊臣秀吉。沼田の真田信幸(信之)の後ろ盾は、徳川家康ということなのか・・・。偶然なのか、意図的なのか、このような構図が出来上がります。

1594年(文禄3年)には従五位下伊豆守に叙任される、弟・真田信繁は従五位下左衛門佐に叙任。同時に二人に「豊臣姓」を下賜。

本能寺の変から豊臣秀吉への臣従までの真田昌幸、まさに表裏比興の者
本能寺の変により織田信長を失った真田家。大きな後ろ盾を失った真田家は豊臣秀吉に臣従するまで、たびたび主君を替えながら家の存続を目指す。結果、信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。真田昌幸は数々の苦渋の決断がありながら、真田家の立ち位置を変える。管理人の頭を整理すべく、記事投稿します。。
真田家から見る沼田領問題。天正壬午の乱から小田原征伐まで。
真田家から見ると沼田領は、重要な領土であった。沼田領問題は、天正壬午の乱から小田原征伐に至るまで、なかなか解決しなかった。真田昌幸が変幻自在に主君をかえながら、なんとか沼田領を死守する。豊臣秀吉の裁定により北条家の領土になるが、北条氏滅亡後は、真田信幸(信之)が城主になることで、ふたたび沼田領は真田家に戻るのである。。
真田家と沼田城。真田信幸(信之)の正室・小松姫の逸話と平八岩。
沼田領問題のもとになる沼田城。交通の要所であり、各大名から見ても真っ先に取得したい城であった。事実、城の支配者は何回か交代する。豊臣秀吉による小田原征伐の火種にもなっている。紆余曲折ありながら、北条家滅亡後は、ふたたび真田家の支配となる。小松姫の逸話と平八岩を紹介しながら、おもに真田家と沼田城についての記事投稿です。
第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)、真田VS徳川
天正壬午の乱の和睦条件で浮上した沼田領問題。沼田を巡り争う真田家と北条家。真田昌幸が上杉景勝に通じたことにより徳川家康は、真田討伐を決意。第一次上田合戦である。1585年(天正13年)閏8月から同年11月、徳川家譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔したことにより完全に撤退。真田家を討伐することはできなかった。

関ヶ原の戦い、大坂の陣

真田信幸(信幸)と本多平八郎忠勝の娘、正室小松姫,画像01

天下への野望を隠さない徳川家康は、石田三成と豊臣恩顧の武闘派の対立を巧みに利用し、最初に前田家を封じ、次のターゲットを会津上杉家にむける。

直江山城守兼続の「直江状」もあり、家康は上杉征伐を決意。真田家もコレに従う。この間、上方で石田三成が挙兵する。真田家は話し合いの結果、真田昌幸、信繁(幸村)が石田三成の西軍、真田信幸(信之)が徳川家康の東軍につくことが決まる。

家康は、息子徳川秀忠を総大将に本隊を編成し、中山道から関ヶ原へむかわせる。家康自身は東海道から関ヶ原へ。

秀忠軍は、途中真田昌幸、信繁(幸村)が籠城する上田城を攻める。この時、真田信幸(信之)は秀忠軍の先棒をつとめ、真田昌幸、信繁(幸村)の説得にあったている。

しかし交渉は決裂し、秀忠軍は敗北。関ヶ原へむかうが遅参。家康パパにきつくしかられる(笑)。関ヶ原の戦いはというと、東軍の勝利。

戦後処理にて信幸(信之)は、本多平八郎忠勝を頼り、真田昌幸、信繁(幸村)の助命を嘆願。当然死罪と思われたが、九度山に流罪にとどまった。

1614年(慶長19年)の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣には病気のため出陣できず、かわりに長男の信吉、次男の信政が出陣。

犬伏の別れ。関ヶ原の戦いを前にした真田父子の別れ
関ヶ原の戦いを前に、下野国犬伏(現在の佐野市)で真田昌幸、信幸、信繁父子は話し合いをする。信幸が徳川方、昌幸と信繁が豊臣方に分かれて戦うことを決断。「犬伏の別れ」である。どちらが勝っても真田の家が残るようにと言われている。信幸(信之)の正室の養父は徳川家康であり、信繁(幸村)の正室の父は大谷刑部少輔吉継であるのだか。
第二次上田合戦、犬伏の別れにより真田父子が東軍・西軍に
第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)から15年。真田家と徳川家は上田城を舞台に再び激突した。真田昌幸の嫡男・信之は徳川秀忠方である。第一次上田合戦に続いて第二次上田合戦も真田家の勝利。秀忠は関ヶ原本戦には遅参。が関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わる。真田昌幸・信繁(幸村)は高野山に流罪。のちに九度山に流罪になる。
真田信繁(幸村)と徳川家康
真田信繁(幸村)と徳川家康について記事投稿します。真田家と徳川家の関係は第一次上田合戦、上杉征伐、第二次上田合戦、大坂冬の陣、大坂夏の陣があります。第二次上田合戦では二代将軍徳川秀忠を関ヶ原の戦いに遅参させています。また大坂夏の陣では、徳川家康に二度も自害を決意させたと伝えられています。

上田藩初代藩主、そして松代藩初代藩主

真田信幸(信之)は、関ヶ原の戦い後、父・昌幸の旧領に加え3万石を加増され、9万5,000石となり初代上田藩主となった。この石高には沼田3万石も含まれます。

上田城は取り壊されたので、引き続き沼田城を本拠としました。この頃徳川家への配慮からか、名を信之に改めている。領主としても領地の回復に努めるなど、なかなかの領主ぶりを発揮する!

1622年(元和8年)、信濃国松代藩に加増移封され、13万石(沼田3万石は継承)の所領を得る。がこれは事実上の左遷である。温厚なイメージの信之だが、松城転封には不服を申し立てている。

1656年(明暦元年)、長男の信吉や嫡孫で信吉の長男・熊之助が既に死去していたため、次男の信政に家督を譲って隠居。しかし1658年(万治元年)2月に信政も死去した。

この時、真田家では後継者争いが起こる。最終的には幸道が第3代藩主となり、2歳の幼少のために信之が復帰して藩政を執った。

この騒動により信利の領地は沼田藩として独立し、松代藩は10万石となる。

同年10月17日に死去。享年93。すごい長寿です!

辞世の歌

「何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり 」

その後の真田家は、幕末まで存続し、真田幸貫は老中にまでなっている。維新後は子爵に叙せられる。のちには伯爵。

真田信吉。大坂の陣で逃走、松代藩・沼田城主。従五位下・河内守
真田信吉(さなだのぶよし)。母は清音院殿(真田信綱の娘)。官位は従五位下・河内守。信濃松代藩・沼田城主。この時の沼田の所領は独立した藩ではない。病気療養の父・信之の代わりに弟・信政とともに大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。豊臣方に敗れ逃走したといわれている。
真田信政。真田信幸(信之)の次男、信濃松代藩主。最後は父と対立
真田信政(さなだのぶまさ)。母は小松姫(本多忠勝の娘)。官位は従四位下・侍従兼大内記。信濃松代藩主。病気療養の父・信之の代わりに兄・信吉とともに大坂冬の陣・大坂夏の陣に参戦。豊臣方に敗れ逃走したといわれている。なかなか隠居しないと思い込んでいた父・信之とは対立があったようである。

信幸(信之)の妻?「こう」について

「真田丸」では、「こう」を長野里美が演じています。知りませんでした。

長篠の戦いで戦死した真田信綱の娘で、信幸(信之)の最初の妻と見られてます。清音院殿でしょうか。。真田信綱は父・昌幸の長兄で、信幸(信之)には叔父になります。戦死しなければ真田家の家督を継いでいました。

「こう」と信幸(信之)は従妹(いとこ)でもあります。信幸(信之)の長男・信吉は真田氏(こう・清音院殿)が産んだ子であるとの説もある。

徳川家康の命令で、小松殿が嫁いできたために側室に格下げされたのでしょうか。

それから「こう」という名はドラマオリジナル?

清音院殿、真田信幸(信之)の正室で信吉を産む。真田丸では「こう」
真田丸では「こう」という名前で、女優・長野里美が演じている清音院殿。清音院という名前は戒名からである。真田信幸(信之)の正室で長男・信吉を産みます。父は真田信綱。母は於北殿(高梨政頼の娘または妹)。のちに信吉は沼田城主になっている。大河ドラマ・真田丸での「おこう」は病弱ではあるが、魅力的なキャラクターになっています。
雁金踊り。真田丸の祝言で源三郎信幸の妻・おこう(長野里美)が踊る
「真田丸」第十一話「祝言」で源次郎信繁と梅の祝言の最中、病弱な「おこう」が披露する真田名物・雁金踊り(かりがねおどり)。管理人は踊りのことは詳しくないので、雁金踊りを調べてみた。ゆったりなテンポの踊りです。それから雁金は、もうひとつの真田家家紋「結び雁金」を連想させる。別間では室賀正武殺害が行われている・・・。

小松姫

1573年(天正元年)、徳川氏譜代家臣の本多平八郎忠勝の長女として生まれる。母は側室の乙女。幼名を稲姫。

1586年(天正14年)頃、真田信幸(信之)に嫁ぐ。嫁いだ年代は、1589年(天正17年)、1590年(天正18年)の説があります。これからの研究に期待!

真田信幸(信之)との間には、信政、信重、まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)らをもうける。

関ヶ原の戦い前夜、真田昌幸は会津上杉征伐からの上田への帰り途中、沼田城の小松姫に「孫に会いたい」というが、武装している小松姫は拒否する。

夫の真田信幸(信之)が不在だったこともあるが、「敵味方に分かれているから」という理由である。昌幸は、すきあらば沼田城を乗っ取るつもりだったとさえいわれている。

ドラマ等で描かれている、薙刀をもった小松姫の姿が、管理人に印象付けられている。

1620(元和6年)、病にかかり江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中、武蔵鴻巣で亡くなる。

小松姫(稲姫・小松殿)。真田信幸(信之)の正室、父は本多平八郎忠勝
本多平八郎忠勝の娘からか、「薙刀」を持った逸話からか、気丈なイメージがある小松姫。真田信幸(信之)との夫婦仲は良かったようです。信幸(信之)とは仲々子供ができなかったようで、信幸(信之)に側室をすすめています。真田家には徳川家康の養女として嫁いでます。小松姫といえば沼田城での薙刀で武装している姿ですが・・・。
本多平八郎忠勝。小松姫の実父であり、徳川四天王、徳川十六神将
徳川四天王、徳川十六神将である本多平八郎忠勝。上総大多喜藩主、伊勢桑名藩主。官位は従五位下・中務大輔。豪将であり義の人というイメージです。真田昌幸、信繁(幸村)の助命があるからだと思います。生涯57回の戦で一度も負けなかったが、死の数日前、小刀で手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまったことは有名である。

小野お通

真田信之は小野お通に思いを寄せていたという説がある。

小野お通(おののおつう)とは、詩歌・琴・書画など万藝に秀でた才女であったといわれる女性。その出自・経歴は謎が多い。

信之の正室・小松姫は晩年に、「そろそろ京の人を迎えてみてはどうですか?」とお通を側室にするよう勧めたといわれる。

しかし信之はお通を側室に入れることはなかった。

真田氏ゆかりの広徳寺に墓がある。

小野お通。詩歌・琴・書画などに秀でた才女、真田信之との関係?
詩歌・琴・書画など万藝に秀でた才女であったといわれる小野お通。その出自・経歴は謎が多く、推測の域を出ていない。そして小野お通といえば、真田信之を連想してしまう。最終的には側室にはしていないようである。しかし真田信之の次男・信政がお通の娘・宗鑑尼(そうかんに)を側室としている。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

真田信之 – Wikipedia

小松姫 – Wikipedia

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関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

弟真田幸村のドラマ、ゲームキャラクターの扱われ方が派手なせいか兄の真田信幸(信幸)は地味な印象がある。そして正室小松姫は薙刀を持った「男勝り」な印象がある。

真田信幸(信幸)、小松姫の印象も何かを見て刷り込まれた勝手な印象が残っていたのであろう。。今回の調査は管理人にとって、たいへん役立った!

この情報をもとに、大河ドラマ「真田丸」を楽しみに視聴したいと思います!!

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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