真田信繁(幸村)と徳川家康

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真田信繁(幸村)と徳川家康について記事投稿します。真田家と徳川家の関係は第一次上田合戦、上杉征伐、第二次上田合戦、大坂冬の陣、大坂夏の陣があります。第二次上田合戦では二代将軍徳川秀忠を関ヶ原の戦いに遅参させています。また大坂夏の陣では、徳川家康に二度も自害を決意させたと伝えられています。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

真田信繁(幸村)と徳川家康の関係性についてまとめてみました。

それではいってみよう!

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第一次上田合戦

背景として、織田信長が本能寺の変で横死したのを発端とします。武田遺領をめぐって、上杉氏、北条氏、徳川氏が争います。

1585年(天正13年)、徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分寺付近に兵を展開。これに対して真田方は約1200人であったと言われている。

父・昌幸は上田城に、兄・信幸は支城の戸石城に籠城した。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟・矢沢頼康が上杉の援兵と共に籠城した。

閏8月2日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。

この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる。一方、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだと言われる。

その後も小競り合いが続くが、攻略することができないでいた。11月には譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退することになる。

重臣石川数正の出奔は、ショックだよねー(笑)。ということは徳川家康が真田攻略に時間がかかったのをいいことに秀吉が裏でチョロチョロ動いたんだよね(笑)。策士秀吉らしいー(笑)。

それにしても真田昌幸の戦略、戦術は見事だよね。まさか小さい所領しか持たない真田家が徳川勢を撤退させるとは。。。

なお第一次上田合戦の時、真田信繁(幸村)は人質として上杉家にいる。真田信繁(幸村)と徳川家康の因縁の始まりである。。

本能寺の変から豊臣秀吉への臣従までの真田昌幸、まさに表裏比興の者
本能寺の変により織田信長を失った真田家。大きな後ろ盾を失った真田家は豊臣秀吉に臣従するまで、たびたび主君を替えながら家の存続を目指す。結果、信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。真田昌幸は数々の苦渋の決断がありながら、真田家の立ち位置を変える。管理人の頭を整理すべく、記事投稿します。。
真田家から見る沼田領問題。天正壬午の乱から小田原征伐まで。
真田家から見ると沼田領は、重要な領土であった。沼田領問題は、天正壬午の乱から小田原征伐に至るまで、なかなか解決しなかった。真田昌幸が変幻自在に主君をかえながら、なんとか沼田領を死守する。豊臣秀吉の裁定により北条家の領土になるが、北条氏滅亡後は、真田信幸(信之)が城主になることで、ふたたび沼田領は真田家に戻るのである。。
真田家と沼田城。真田信幸(信之)の正室・小松姫の逸話と平八岩。
沼田領問題のもとになる沼田城。交通の要所であり、各大名から見ても真っ先に取得したい城であった。事実、城の支配者は何回か交代する。豊臣秀吉による小田原征伐の火種にもなっている。紆余曲折ありながら、北条家滅亡後は、ふたたび真田家の支配となる。小松姫の逸話と平八岩を紹介しながら、おもに真田家と沼田城についての記事投稿です。
第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)、真田VS徳川
天正壬午の乱の和睦条件で浮上した沼田領問題。沼田を巡り争う真田家と北条家。真田昌幸が上杉景勝に通じたことにより徳川家康は、真田討伐を決意。第一次上田合戦である。1585年(天正13年)閏8月から同年11月、徳川家譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔したことにより完全に撤退。真田家を討伐することはできなかった。

(参考サイト)

上田合戦 – Wikipedia

上杉征伐

五大老の一人前田利家の死去により、五奉行(主に石田三成)と徳川家康の対立が深まる。これに豊臣武闘派(加藤清正、福島正則など)と石田三成の対立も加わり、豊臣家は完全に二分された。

石田三成は徳川家康によって、佐和山に隠居させられる。今度は仮想ターゲットを会津上杉氏に。直江兼続の「直江状」もむなしく、家康は上杉征伐を決意し、出陣する。これに豊臣武闘派も従う。

途中、家康の狙い通り、上方で石田三成が挙兵。徳川家康は「小山会議」で豊臣恩顧の大名を味方にすることに成功。

一方真田家はというと、おなじく栃木で昌幸、信之、幸村の話し合いがもたれる。結果、昌幸と幸村は西軍、信之は東軍につくことが決まった。

ちなみに信之の正室小松姫は徳川四天王の一人本多忠勝の娘である。そして信繁の正室は豊臣家臣大谷吉継の娘である。こうなることが予測できたように。。これも真田昌幸の戦略か。。。

付け加えるなら、前にも書いたが、大谷吉継は秀吉の子なんて説まである。大谷刑部ってかっこいいよねw

犬伏の別れ。関ヶ原の戦いを前にした真田父子の別れ
関ヶ原の戦いを前に、下野国犬伏(現在の佐野市)で真田昌幸、信幸、信繁父子は話し合いをする。信幸が徳川方、昌幸と信繁が豊臣方に分かれて戦うことを決断。「犬伏の別れ」である。どちらが勝っても真田の家が残るようにと言われている。信幸(信之)の正室の養父は徳川家康であり、信繁(幸村)の正室の父は大谷刑部少輔吉継であるのだか。

第二次上田合戦

真田信繁(幸村)と徳川家康,城

こうなると関ヶ原までまっしぐらである。昌幸、信之、幸村は西軍、東軍に別れて戦の準備をする。昌幸、幸村は上田城に籠城。

信之は徳川秀忠の徳川家本隊に従軍する。そして中山道から関が原を目指す。なおかつ上田城攻めの先棒である。昌幸、幸村親子の説得にも当たる。

しかし、説得を無視し、籠城戦が始まる。ここでも第一次上田合戦に続き徳川軍を撃退に成功。こうなると徳川家にとって真田家は天敵である。結果、徳川秀忠軍は関ヶ原の戦いに遅参。激しく家康に怒られるのである(笑)。

関ヶ原の戦いはというと、みなさんも知っての通り、徳川本隊がいなくても家康の東軍勝利。戦況が変わったのは金吾中納言小早川秀秋などの裏切りなどがあったから。。

当然昌幸、信繁親子は死罪と思われた。が真田信幸、本多忠勝の説得により九度山への流罪ですみます。ここでも真田家を西軍、東軍に分けた意味がでてきます。

第二次上田合戦、犬伏の別れにより真田父子が東軍・西軍に
第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)から15年。真田家と徳川家は上田城を舞台に再び激突した。真田昌幸の嫡男・信之は徳川秀忠方である。第一次上田合戦に続いて第二次上田合戦も真田家の勝利。秀忠は関ヶ原本戦には遅参。が関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わる。真田昌幸・信繁(幸村)は高野山に流罪。のちに九度山に流罪になる。

大坂冬の陣

最初大坂方は籠城か野戦かが論じられますが、結局籠城に決まります。すると真田信繁(幸村)は真っ先に豊臣秀吉が生前、築城の際に悩み込んだ大坂城の唯一の弱点であったとされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて、先鋒隊に打撃を与えた。徳川勢は撤退に至りました。

余談ですが、先日のNHKの放送では、「真田丸」は大坂城の出城ではなく、大坂城より少し離れた場所にあり、既存の寺、地形を利用した砦だったのではないかという説を唱えていました。

この戦いで、真田信繁(幸村)の武名が世間にとどろきます。この戦いが真田丸の戦いです。

しかし幸村の健闘むなしく、大坂城に向かって撃たれた大砲にびびったのか(笑)。豊臣方と徳川方は講和してしまいます。講和の条件として、堀はうめられ、真田丸も取り壊されてしまいました。

大坂夏の陣

そして翌年の大坂夏の陣である。真田丸を壊された真田信繁(幸村)はどうしたかというと、前年の大坂冬の陣で徳川家康が本陣をおいた茶臼山に砦を築きます。

なんと真田丸は2つあったw

しかし、最後は真田信繁(幸村)は茶臼山の砦を捨て、家康本陣に向かってつっこみます。馬印を倒し、家康に二度も自害を決意させます。

が最後は力尽き、四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で討ち取られます。享年49。。。

大坂冬の陣、大坂夏の陣の武功により「日の本一の兵」と称される。(ひのもといちのつわもの)っていいます。

結局、徳川家康は三方ヶ原の戦いに続き、二度までも武田家と関連した武将に馬印を倒されています。

関係ないですが、「赤備え」について。武田の赤備え。真田の赤備え。井伊の赤備えって続きます。やっぱ徳川家康は敬意を表していたんでしょう。

だから重臣の井伊家に「赤備え」させたんだと思います。なんかの本で読んだような(笑)。

その後の真田家

大坂冬の陣後の信之の真田家は、松代への国替えがありながらも幕末まで存続します。真田信之は93歳まで生きます。超長生きー(笑)。

まさに真田家が存続するということは真田昌幸の計算通りですね~(笑)。吹けば飛ぶような所領の真田家が。。

真田信繁(幸村)の人気について

これは管理人の独断と偏見です。お付き合いください(笑)。

真田十勇士などの人気もありますが、真田家を名将としなければ、徳川家の格好がつかなかったのではないか。。と思ってます。

そもそもが真田家と徳川家では、所領の規模が違いすぎます。それが第一次上田合戦、第二次上田合戦、大坂冬の陣、大坂夏の陣での戦いが分が悪すぎます。

勝って当然の敵に、撃退されたりしています。もしかしたら徳川家が積極的に「真田は名将」と流布したかもしれません(笑)。

以上、管理人の戯れ言でした(笑)。

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

日の本一の兵」と称された真田信繁(幸村)と徳川家康についてを勝手に記事投稿しました(笑)。

徳川家康は「たぬき」と言われますが、漫画「花の慶次」で幸村は父昌幸を「たぬき親父」なんて言ってました(笑)。完全に余談です(笑)。

最後に機会があったら、大谷形部少輔吉継の記事投稿もしてみたいですね~。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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