一の台。父は菊亭晴季、豊臣秀次の正室(継室)。子は隆清院(真田信繁の側室)。豊臣秀次事件では、父・菊亭晴季も連座したとして越後に流刑になっている。一の台は連座の罪で処刑されている。連れ子には、おみや(のちのお美屋御前)がいる。秀次の側室とあるが、信憑性は薄いようである。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
豊臣秀次の正室(継室)である一の台について記事投稿する。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
一の台
一の台(いちのだい)。1562年(永禄5年)~1595年(文禄4年)8月2日。父は菊亭晴季。豊臣秀次の正室(継室)。
子は、おみや(お美屋御前)、隆清院(真田信繁の側室)。
戒名は徳法院殿誓威大姉。
一の台の父「菊亭晴季」のキーワード検索が多いようです。菊亭晴季の記事投稿もしてますので、よろしければ参考にしてみてください。
豊臣秀次の正室(継室)
はじめは三条顕実に嫁ぐ。おみや(のちのお美屋御前)をもうける。「系図纂要」には教行寺佐栄の正室とある。
父・菊亭晴季によって豊臣秀次の妻となった。一の台とは「一の御台所」の意味で正室のこと。若御前(池田恒興の娘)は存命していたという説もある。
池田氏の女は若政所と呼ばれ、若い方の正室と、一番の正室という意味のようだ。
豊臣秀次事件
1595年(文禄4年)、豊臣秀次が自害。
北政所らの助命嘆願も聞き入られず処刑と決まった。
1595年(文禄4年)8月2日、連座の罪で、一の台は処刑(斬首)。享年34。
辞世の句は、
「ながらへて ありつるほどの 浮世とぞ 思へばなかる 言葉もなし」
処刑に関する逸話
一の台は最初、秀吉の側室となるはずであったが、拒み続けたために秀次が自害させられたともいわれている。
「絵本太閤記」によると、関白・豊臣秀次は美貌の一の台を是非にと妻とした。連れ子である「おみや(13歳)」も美しかったので、これも側室として母娘共に寵愛していたとする。
太閤・豊臣秀吉は、子供まで犯すとは人にあるまじき畜生にも劣る所業であると忌み嫌って、一の台を最初に処刑した。その墓を「畜生塚」と名付けたという逸話がある。
「畜生塚」または「悪逆塚」、転じて「畜生関白」とか言われるようになったとしている。
これらは根拠に乏しい俗説・悪評であるとされる。秀次を大逆非道の人物とする太閤記の脚色の影響が大きい。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
一の台の父・菊亭晴季の記事投稿でも感じたが、なんで母がわかっていないのか不思議である。
菊亭家(今出川家)の家格なら資料が残っていても良さそうなものだが・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。