高台院(北政所)。豊臣秀吉の正室、後陽成天皇より従一位を賜る

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この記事の所要時間: 65(文字数:3,651文字)

高台院(北政所)。諱には諸説あり、「ねね」とされることが多いが「おね」「祢(ね)」「寧(ねい)」という表記もある。「寧」「寧子」「子為(ねい)」などと記されている事から「ねい」説もある。位記には「豊臣吉子」の表記もある。法名は高台院湖月心公。豊臣秀吉の正室。兄は木下家定、甥に小早川秀秋がいる。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

秀吉との間に子はなさなかったが、福島正則・加藤清正・石田三成らを養育し、豊臣家の母のイメージがあるのだが・・・。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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高台院

高台院(こうだいいん)。?~1624年(寛永元年)9月6日。尾張国に生まれる。

北政所(きたのまんどころ)という通称で知られる。豊臣秀吉の正室。

諱には諸説あり、「ねね」とされることが多いが「おね」「祢(ね)」「寧(ねい)」という表記もある。

「寧」「寧子」「子為(ねい)」などと記されている事から「ねい」説もある。位記には「豊臣吉子」の表記もある。

父は杉原定利。母は朝日殿。兄弟は木下家定、長生院、杉原くま。叔母・ふくの嫁ぎ先・尾張国海東郡津島(現在の津島市)の浅野長勝の養女。

甥に羽柴秀俊(小早川秀秋)、木下利房。

墓所は京都市東山区の高台寺。遺骨は高台寺霊屋の高台院木像の下。法名は高台院湖月心公。

小早川秀秋。秀吉の養子、金吾中納言~関ヶ原の戦いで西軍を裏切る
小早川秀秋といえば関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったということになるが・・・。通称「金吾中納言」も有名である。飲酒についてはかなり好きだったようであるというか、飲まなければプレッシャーがありやってられなかったのだろうか。気持ちはわかる。天下人が叔父というのはかなりのもんだと思う。そういう意味では同情してしまう・・・。

秀吉の妻

尾張国に杉原定利・朝日殿の次女として生誕。のち浅野長勝の養女。

  • 1561年(永禄4年)8月、織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)に嫁ぐ。
  • 1568年(永禄11年)、この年あたりから数年間、美濃国・岐阜に在住。
  • 1574年(天正2年)、秀吉の所領が近江国・長浜12万石となる。秀吉の生母・なか(大政所)と共に転居。
  • 1582年(天正10年)、本能寺の変。明智方の阿閉氏に攻められ大吉寺に避難。

秀吉に嫁ぐときは、実母・朝日の反対を押し切った。14歳であったと言われる。

岐阜に移住した頃、秀吉は上洛しており妾を取り、石松丸秀勝をもうけている。

秀吉が長浜城主になった頃から、秀吉や自身の親類縁者を養子や家臣として養育。福島正則・加藤清正らがいる。

長浜城。別名は今浜城。羽柴秀吉が小谷城攻めの功績により拝領。三献の茶
長浜城の別名は今浜城。というかもとは今浜という名称で、羽柴秀吉が城主になって織田信長の名から一字拝領し長浜に改名。室町時代初期、佐々木道誉の出城が元と伝わる。羽柴秀吉が小谷城攻めの功績により拝領。本格的に羽柴秀吉が最初に築いた居城でもある。
加藤清正。賤ヶ岳の七本槍だが、従五位下主計頭に込めた秀吉の思い
熊本城築城、賤ヶ岳の七本槍、虎退治、地震加藤などで有名な加藤清正。エピソードが多い武将だ。意外だが、文禄・慶長の役まで大軍を指揮していない。当初から石田三成と対立していたわけではなく、ただの「猪武者」でもないようだ。勇猛果敢な豪将のイメージがあるが最初の官位は従五位下・主計頭である。そこに込めた秀吉の思いとは・・・。
福島正則。羽柴清須侍従、広島城改修などが原因で晩年は改易
福島正則は羽柴清須侍従などと呼ばれた。幼少期を秀吉の小姓として加藤清正らと育っている。また賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名。朝鮮出兵後は、石田三成らの文治派と対立する。会津征伐に従軍し、小山評定では重要な役割を果たし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利する流れを作った。

北政所

高台院(北政所)。豊臣秀吉の正室、後陽成天皇より従一位を賜る,画像01

秀吉が天下人への階段を昇り始めると、自身の環境も一変した。大坂城が完成すると、秀吉とともに移った。

  • 1585年(天正13年)、秀吉が関白任官。高台院も従三位に叙せられ、北政所の称号を許される。
  • 1588年(天正16年)、後陽成天皇の聚楽第行幸。功により従一位に叙せられている。

北政所は天下人の妻として朝廷との交渉を一手に引き受けた。また人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割も担った。

1593年(文禄2年)に始まった文禄・慶長の役で、秀吉は補給物資輸送の円滑化を目的に交通の整備をした。秀吉の朱印状、北政所の黒印状を必要とする体制が築かれた。

羽柴秀吉、関白相論に介入して関白宣下。武家関白制をめざす
羽柴(豊臣)秀吉は武家関白制を目指します。征夷大将軍就任を断った説もありますが定かではありません。秀吉の登場により朝廷は混乱。五摂家による関白の持ち回りの崩壊、気前よく官位を与えたことにより官位が不足。秀頼誕生により秀次事件。秀吉死後、関白不在、大臣は徳川家康だけでした。秀吉が秀頼のために空位にしていたのです・・・。
「源平藤橘」に次ぐ氏(うじ)「豊臣」を賜る秀吉。氏姓は豊臣朝臣
大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」の予告で秀吉演じる小日向文世が「とよとみのひでよし」と高らかに名乗っている。なるほどと思い「豊臣氏」について記事投稿します。豊臣氏は摂関家になった。藤原良房以来700年にわたって継続されてきた藤原氏の摂政関白が中断。秀吉は豊氏長者・藤氏長者でもあり武家関白制を目指すこととなった。

秀吉の没後~晩年

1598年(慶長3年)8月18日に秀吉が没すると、淀殿とともに豊臣秀頼の後見をした。

  • 1599年(慶長4年)、石田三成襲撃事件。徳川家康は中立的な北政所の仲裁を受けた。
  • 1599年(慶長4年)9月、大坂城を退去。奥女中兼祐筆の孝蔵主らとともに京都・新城へ移住。
  • 1600年(慶長5年)9月17日、兄・木下家定の護衛により准后・勧修寺晴子の屋敷に駆け込む。

関ヶ原の戦い前後の北政所の立場は微妙であった。

秀吉から河内国内に与えられていた1万5,672石余の所領は家康からも安堵されていた。のちに所領は微増している。

  • 1603年(慶長8年)、養母が死去。秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に落飾。朝廷から院号を賜り、高台院快陽心尼、のち高台院湖月心尼と称した。
  • 1605年(慶長10年)、京都東山に高台寺を建立。実母と秀吉の冥福を祈るためである。
  • 1615年(元和元年)、豊臣氏滅亡。

大坂の陣では江戸幕府の意向で、甥・木下利房が護衛兼監視役として付けられ身動きを封じられた。功績により木下利房は備中国・足守藩主になっている。

大坂の陣では行動が監視されたが、徳川家との関係は極めて良好。徳川秀忠の高台院屋敷訪問や、高台院主催による二条城内での能興行が行われた記録が残る。

1624年(寛永元年)9月6日、高台院屋敷にて死去。享年については76、77、83などの諸説がある。

利房の子・利次(一説に利三)を、豊臣家(羽柴家)の養子として迎えており、遺領約1万7,000石のうち近江国内3,000石分は利次によって相続。

墓所は京都市東山区の高台寺。遺骨は高台寺霊屋の高台院木像の下に眠る。

淀殿(茶々)。豊臣秀吉の側室、秀頼の母、母は織田信長の妹・市
豊臣秀吉の側室・淀殿。父は浅井長政で、母は織田信長の妹・市。同母妹は初、江。子は鶴松、秀頼。猶女は完子。本名は茶々、菊子。秀吉の側室となってからは皆さんご存知だろう。秀吉が登場するドラマには欠かせない人物である。淀殿に「菊子」という名があるのは知りませんでした。淀殿といえば大坂冬の陣・大坂夏の陣なのだが・・・。
石田三成襲撃事件。三成と七将の対立~結城秀康と石田正宗
豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いまでの大きな出来事として「石田三成襲撃事件」がある。徳川家康の仲裁により石田三成は隠居させられます。豊臣政権の武断派と文治派の対立が表面化され、結果的に家康に利用されました。結城秀康は三成を佐和山城まで送り届け、三成から「名刀・正宗」を譲られている。秀康は「石田正宗」と名付け終生愛用。

北政所について

平安時代、北政所(きたのまんどころ)は三位以上の公卿の正室の呼び名であった。宣旨をもって特に授けられた摂政・関白の正室の称号。

戦国時代末期に豊臣秀吉正室・おね(高台院)以後は、彼女を指す固有名詞として定着。

同じように「太閤」が秀吉以後は専ら秀吉のことを指す固有名詞になり、摂政関白の生母に贈られる称号を「大政所」(おおまんどころ)も秀吉の「生母・なか」を指す固有名詞として定着している。

大政所(仲・なか)。秀吉、秀長、朝日姫の母。「秀吉」では市原悦子
大政所(仲・なか)。子には豊臣秀吉、秀長、日秀、朝日姫(旭姫・駿河御前)。秀吉が関白になったことにより従一位を賜っている。法名は天瑞院春岩。秀吉が天下人になったため、途中から人生が劇的に変わった人物である。僅かな期間であるが年老いてから、息子・秀吉のため徳川家康の人質になっている。死後に後陽成天皇から准三后を追号。

大河ドラマ「真田丸」では鈴木京香が演じる

大河ドラマ「真田丸」では北政所を鈴木京香が演じる。

過去には1981年放送のNHK大河ドラマ「おんな太閤記」では佐久間良子が演じている。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

高台院 – Wikipedia

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2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

高台院(北政所)の歴史そのものが豊臣家の歴史と言っても過言ではないだろう。

秀吉とともに築いた豊臣家滅亡を目の当たりにした高台院(北政所)の心境はどうだったのであろうか?

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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