高台院(北政所)。諱には諸説あり、「ねね」とされることが多いが「おね」「祢(ね)」「寧(ねい)」という表記もある。「寧」「寧子」「子為(ねい)」などと記されている事から「ねい」説もある。位記には「豊臣吉子」の表記もある。法名は高台院湖月心公。豊臣秀吉の正室。兄は木下家定、甥に小早川秀秋がいる。
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秀吉との間に子はなさなかったが、福島正則・加藤清正・石田三成らを養育し、豊臣家の母のイメージがあるのだが・・・。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
高台院
高台院(こうだいいん)。?~1624年(寛永元年)9月6日。尾張国に生まれる。
北政所(きたのまんどころ)という通称で知られる。豊臣秀吉の正室。
諱には諸説あり、「ねね」とされることが多いが「おね」「祢(ね)」「寧(ねい)」という表記もある。
「寧」「寧子」「子為(ねい)」などと記されている事から「ねい」説もある。位記には「豊臣吉子」の表記もある。
父は杉原定利。母は朝日殿。兄弟は木下家定、長生院、杉原くま。叔母・ふくの嫁ぎ先・尾張国海東郡津島(現在の津島市)の浅野長勝の養女。
甥に羽柴秀俊(小早川秀秋)、木下利房。
墓所は京都市東山区の高台寺。遺骨は高台寺霊屋の高台院木像の下。法名は高台院湖月心公。
秀吉の妻
尾張国に杉原定利・朝日殿の次女として生誕。のち浅野長勝の養女。
- 1561年(永禄4年)8月、織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)に嫁ぐ。
- 1568年(永禄11年)、この年あたりから数年間、美濃国・岐阜に在住。
- 1574年(天正2年)、秀吉の所領が近江国・長浜12万石となる。秀吉の生母・なか(大政所)と共に転居。
- 1582年(天正10年)、本能寺の変。明智方の阿閉氏に攻められ大吉寺に避難。
秀吉に嫁ぐときは、実母・朝日の反対を押し切った。14歳であったと言われる。
岐阜に移住した頃、秀吉は上洛しており妾を取り、石松丸秀勝をもうけている。
秀吉が長浜城主になった頃から、秀吉や自身の親類縁者を養子や家臣として養育。福島正則・加藤清正らがいる。
北政所
秀吉が天下人への階段を昇り始めると、自身の環境も一変した。大坂城が完成すると、秀吉とともに移った。
- 1585年(天正13年)、秀吉が関白任官。高台院も従三位に叙せられ、北政所の称号を許される。
- 1588年(天正16年)、後陽成天皇の聚楽第行幸。功により従一位に叙せられている。
北政所は天下人の妻として朝廷との交渉を一手に引き受けた。また人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割も担った。
1593年(文禄2年)に始まった文禄・慶長の役で、秀吉は補給物資輸送の円滑化を目的に交通の整備をした。秀吉の朱印状、北政所の黒印状を必要とする体制が築かれた。
秀吉の没後~晩年
1598年(慶長3年)8月18日に秀吉が没すると、淀殿とともに豊臣秀頼の後見をした。
- 1599年(慶長4年)、石田三成襲撃事件。徳川家康は中立的な北政所の仲裁を受けた。
- 1599年(慶長4年)9月、大坂城を退去。奥女中兼祐筆の孝蔵主らとともに京都・新城へ移住。
- 1600年(慶長5年)9月17日、兄・木下家定の護衛により准后・勧修寺晴子の屋敷に駆け込む。
関ヶ原の戦い前後の北政所の立場は微妙であった。
秀吉から河内国内に与えられていた1万5,672石余の所領は家康からも安堵されていた。のちに所領は微増している。
- 1603年(慶長8年)、養母が死去。秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に落飾。朝廷から院号を賜り、高台院快陽心尼、のち高台院湖月心尼と称した。
- 1605年(慶長10年)、京都東山に高台寺を建立。実母と秀吉の冥福を祈るためである。
- 1615年(元和元年)、豊臣氏滅亡。
大坂の陣では江戸幕府の意向で、甥・木下利房が護衛兼監視役として付けられ身動きを封じられた。功績により木下利房は備中国・足守藩主になっている。
大坂の陣では行動が監視されたが、徳川家との関係は極めて良好。徳川秀忠の高台院屋敷訪問や、高台院主催による二条城内での能興行が行われた記録が残る。
1624年(寛永元年)9月6日、高台院屋敷にて死去。享年については76、77、83などの諸説がある。
利房の子・利次(一説に利三)を、豊臣家(羽柴家)の養子として迎えており、遺領約1万7,000石のうち近江国内3,000石分は利次によって相続。
墓所は京都市東山区の高台寺。遺骨は高台寺霊屋の高台院木像の下に眠る。
北政所について
平安時代、北政所(きたのまんどころ)は三位以上の公卿の正室の呼び名であった。宣旨をもって特に授けられた摂政・関白の正室の称号。
戦国時代末期に豊臣秀吉正室・おね(高台院)以後は、彼女を指す固有名詞として定着。
同じように「太閤」が秀吉以後は専ら秀吉のことを指す固有名詞になり、摂政関白の生母に贈られる称号を「大政所」(おおまんどころ)も秀吉の「生母・なか」を指す固有名詞として定着している。
大河ドラマ「真田丸」では鈴木京香が演じる
大河ドラマ「真田丸」では北政所を鈴木京香が演じる。
過去には1981年放送のNHK大河ドラマ「おんな太閤記」では佐久間良子が演じている。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
高台院(北政所)の歴史そのものが豊臣家の歴史と言っても過言ではないだろう。
秀吉とともに築いた豊臣家滅亡を目の当たりにした高台院(北政所)の心境はどうだったのであろうか?
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。