太閤・豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は台頭した。ことごとく秀吉の遺命に背いた。勝手に諸大名の屋敷を訪れ、諸大名との縁組を行った。石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件により、政敵・石田三成、前田利長を追い落とした。次のターゲットは、会津の上杉景勝。しかし会津征伐の真の狙いは・・・。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
太閤・豊臣秀吉の死後から会津征伐・小山評定までを徳川家康を中心に記事を書きます。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
目次
会津征伐
会津征伐(あいづせいばつ)。「上杉征伐」「会津攻め」とも称される。
1600年(慶長5年)、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康により行なわれた会津の大名・上杉景勝征伐のこと。
会津征伐が関ヶ原の戦いの幕開けとなった。
会津征伐を起こされた理由としては、
- 上杉家は、城地と領民を一元的に支配していた戦国大名の性質を克服できず、新たな領国(会津)の経営に執着した。
- 家康統治の新体制への対応をなおざりにするという政局認識の甘さが、結果的に政策優先順位の錯誤を生んだ。
ということが指摘されている。
太閤・豊臣秀吉の死後の出来事
太閤・豊臣秀吉の死後の徳川家康の動向。
- 1598年(慶長3年)8月18日、太閤・豊臣秀吉が死去。
- 1598年(慶長3年)10月25日、五大老・五奉行より、日本軍の朝鮮からの帰国が命じられる。11月半ばまでに撤退は完了。
五大老筆頭・家康は秀吉から生前、嫡子・豊臣秀頼が成人するまでの間、政治を託された。よって家康は台頭する。
家康は諸大名の屋敷を訪問している。
- 1598年(慶長3年)11月26日、長宗我部元親の屋敷。
- 1598年(慶長3年)12月3日、新庄直頼の屋敷。
- 1598年(慶長3年)12月6日、島津義久の屋敷。細川幽斎の屋敷。
- 1598年(慶長3年)12月11日、増田長盛の屋敷。
- 1599年(慶長4年)1月3日、島津義弘(義久の弟)の屋敷。島津忠恒(義弘の三男)の屋敷。
この訪問は他の大老・奉行には無断で行われており、豊臣政権の法令の一つ「傍輩のうち、その徒党を立つべからず」に反するものであった。
諸大名との縁組
徳川家康は、他の大老・奉行に無断で諸大名との縁組を行っている。
- 松平忠輝(家康の六男)と五郎八姫(伊達政宗の娘)。
- 満天姫(松平康元の娘、家康の姪で養女)と福島正之(福島正則の養子)。
- 万姫(小笠原秀政の娘、家康の曾孫で養女)と蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の嫡男)。
- かな(水野忠重の娘、家康の従妹で養女)と加藤清正。
- 栄姫(保科正直の娘、家康の姪で養女)と黒田長政。
石田三成襲撃事件・七将襲撃事件
諸大名との縁組は、豊臣政権の法令の1つ「諸大名の無許可での縁組の禁止」に違反する行為であった。
- 1599年(慶長4年)1月21日、豊臣氏から無断婚姻の問罪使として三中老(生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴)らが派遣。家康は追求をかわした。
- 1599年(慶長4年)2月2日、家康が前田利家・石田三成らと誓紙を交わして和睦。
- 1599年(慶長4年)閏3月3日、前田利家が死去。
石田三成と対立関係にあった加藤清正・福島正則ら七将が、三成の大坂屋敷を襲撃。「石田三成襲撃事件」「七将襲撃事件」である。
三成は事前に襲撃を知り、佐竹義宣の助力を得て伏見城内の自邸に逃れる。なお家康邸に逃げ込んだとするのは根拠のない俗説である。
家康は仲裁に乗り出し、三成は五奉行から退隠、佐和山城に蟄居となる。
徳川家康暗殺疑惑事件
1599年(慶長4年)9月7日、家康は大坂へ入った。宿所は石田三成の屋敷。
- 1599年(慶長4年)9月9日、重陽の節句のために大坂城に登城。
- 1599年(慶長4年)9月12日、宿所を石田正澄(三成の兄)の屋敷に変更。
- 1599年(慶長4年)9月28日、大坂城西の丸に入る。
- 1599年(慶長4年)10月2日、浅野長政・前田利長・土方雄久・大野治長らを家康の暗殺を謀ったとして処罰。いわゆる徳川家康暗殺疑惑事件。
徳川家康暗殺疑惑事件は、大坂城に登城した9月9日の出来事としている。
10月2日には以下の裁定がくだった。
- 浅野長政:隠居後、徳川領の武蔵・府中で蟄居。
- 大野治長:下総・結城秀康のもとへ追放。
- 土方雄久:常陸国水戸・佐竹義宣のもとへ追放。
- 前田利長:加賀征伐で脅す。生母・芳春院を江戸に人質として差し出させている。
家康は豊臣氏の「蔵入地」を諸大名に分け与えた。
- 遠江浜松12万石の堀尾吉晴に越前府中5万石を加増。
- 丹後宮津12万石の細川忠興に豊後杵築6万石を加増。
- 美濃金山7万石の森忠政を、信濃川中島13万7000石に加増移封。
- 対馬府中1万石の宗義智に1万石を加増。
直江状
家康の政治的影響力が強まる中、五大老のひとりである上杉景勝は家臣・直江兼続に命じて神指城を築城させるなど軍事力の増強に乗り出す。
この景勝の動向は、近隣の大名である最上義光や堀秀治らによって家康に報告されていた。
- 1600年(慶長5年)2月、越後・堀秀治は会津・上杉景勝が軍備を整えて謀反の兆候があると訴えでる。
- 1600年(慶長5年)3月11日、上杉家重臣・藤田信吉が出奔し、景勝の謀反を訴えた。
信吉は、家康と景勝の関係の修復に努めていたが、上杉家から追放された。
- 1600年(慶長5年)4月1日、家康は景勝に対して伊奈昭綱、河村長門(増田長盛の家臣)の両名を問罪使として派遣。
- 1600年(慶長5年)4月13日、伊奈昭綱と河村長門(増田長盛の家臣)が、会津に到着。
このとき家康は西笑承兌に弾劾状をしたためさせている。その内容は景勝の軍事力増強を咎め、異心が無いのであれば誓書を差し出した上で上洛し、弁明すべきというものである。
これに対して兼続は4月14日付で「直江状」を家康に送っている。以下はその一部である。
「当国の儀、其の元に於て種々雑説申すに付、内府(家康)様御不審の由、尤も余儀なき儀に候」
「内府様又は中納言(徳川秀忠)様、御下向の由に候間、万端、御下向次第に仕る可く候」
- 1600年(慶長5年)5月3日、直江状が家康の下に届く。
- 1600年(慶長5年)5月3日、上杉景勝の征伐を決する。
会津征伐の先鋒は福島正則、細川忠興、加藤嘉明が任じられた。伏見城の留守には家康の家臣・鳥居元忠が任じられた。
会津征伐の決定を受けて、前田玄以や長束正家らによって征伐の中止が嘆願されたが、家康は容れなかった。
会津征伐の経緯
1600年(慶長5年)6月2日、関東の諸大名に対して会津征伐の陣触れが出される。
- 1600年(慶長5年)6月6日、大坂城西の丸にて、会津征伐における評定が開かれる。
- 1600年(慶長5年)6月8日、後陽成天皇より、晒布100反が家康に下賜。
- 1600年(慶長5年)6月15日、天野康景と佐野綱正が家康出陣中の大坂城西の丸留守居に任じられる。
- 1600年(慶長5年)6月15日、秀頼より黄金2万両と米2万石が、家康に下賜。
- 1600年(慶長5年)6月16日、大坂城より出陣。
- 1600年(慶長5年)6月18日、伏見城を発つ。
後陽成天皇・秀頼の名前がある通り、朝廷と豊臣家の許しを得たことになる。
- 1600年(慶長5年)6月23日、浜松に宿営。
- 1600年(慶長5年)6月24日、島田に宿営。
- 1600年(慶長5年)6月25日、駿府に宿営。
- 1600年(慶長5年)6月26日、三島に宿営。
- 1600年(慶長5年)6月27日、小田原に宿営。
- 1600年(慶長5年)6月28日、藤沢に宿営。
- 1600年(慶長5年)6月29日、鶴岡八幡宮に参拝して戦勝を祈願。
- 1600年(慶長5年)7月2日、江戸城に入る。
上方では、
- 1600年(慶長5年)7月2日、宇喜多秀家が出陣式を行う。
- 1600年(慶長5年)7月17日、三成が大谷吉継や毛利輝元らを糾合して挙兵。
- 1600年(慶長5年)7月19日、徳川秀忠を総大将とする軍勢を会津に向けて派遣。
- 1600年(慶長5年)7月21日、家康が会津に向けて江戸城を出陣。
- 1600年(慶長5年)7月24日、下野・小山にて、鳥居元忠の急使により三成らの挙兵を知る。
- 1600年(慶長5年)7月25日、会津征伐に従軍した諸大名を招集し軍議を開催。「小山評定」である。
三成らの挙兵を知った家康は直ちに会津征伐を中止、小山評定を開いて今後の対応を協議する。景勝に対しては結城秀康の軍勢を抑えとして残し、家康は反転西上して三成らの討伐に向かった。
景勝もこれを受けて後顧の憂いを絶つため出羽の最上義光を攻略することに方針を転換する(慶長出羽合戦)。
このため徳川軍と上杉軍の直接対決はなかった。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
関連記事
関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。
まとめ
会津征伐は、徳川家康のシナリオどおりだっただろう。
石田三成らが留守中に上方で挙兵することは十分考えられた。もし挙兵しなければ、そのまま上杉家を征伐してしまえばいいと思ったに違いない。
家康は、伏見城を任せた鳥居元忠と「別れの酒」を酌み交わしている・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。