「 戦国時代 」一覧

小松姫(稲姫・小松殿)。真田信幸(信之)の正室、父は本多平八郎忠勝

小松姫(稲姫・小松殿)。真田信幸(信之)の正室、父は本多平八郎忠勝

本多平八郎忠勝の娘からか、「薙刀」を持った逸話からか、気丈なイメージがある小松姫。真田信幸(信之)との夫婦仲は良かったようです。信幸(信之)とは仲々子供ができなかったようで、信幸(信之)に側室をすすめています。真田家には徳川家康の養女として嫁いでます。小松姫といえば沼田城での薙刀で武装している姿ですが・・・。

千利休(宗易)。織田信長の茶頭から豊臣秀吉の側近へ、わび茶を完成

千利休(宗易)。織田信長の茶頭から豊臣秀吉の側近へ、わび茶を完成

堺の商家の生まれで、商人・茶人の千利休(宗易)。わび茶(草庵の茶)の完成者であり、「利休七哲」など数多くの弟子を抱え、茶聖と称された。今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠。天下人・豊臣秀吉の側近の一面もあり、茶人として名声と権威を誇った。「黄金の茶室」の設計でも有名だが、利休の茶道とはかけ離れたものだろう・・・。

大谷刑部少輔吉継。義の人、石田三成との友情~関ヶ原の戦いで散る

大谷刑部少輔吉継。義の人、石田三成との友情~関ヶ原の戦いで散る

大谷吉継の前半生は少し謎の部分が多いです。「秀吉の隠し子説」は根拠がないが好きな話です。奉行としては優秀だったようです。大谷刑部に関しては賛否両論があり過大評価なんて声もあります。あまり解明されていないからミステリアスでもあり、人気があるのかもしれません。やはり関ヶ原の戦いでの強烈な奮戦と死に様でしょうか・・・。

石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い

石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い

石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。

加藤清正。賤ヶ岳の七本槍だが、従五位下主計頭に込めた秀吉の思い

加藤清正。賤ヶ岳の七本槍だが、従五位下主計頭に込めた秀吉の思い

熊本城築城、賤ヶ岳の七本槍、虎退治、地震加藤などで有名な加藤清正。エピソードが多い武将だ。意外だが、文禄・慶長の役まで大軍を指揮していない。当初から石田三成と対立していたわけではなく、ただの「猪武者」でもないようだ。勇猛果敢な豪将のイメージがあるが最初の官位は従五位下・主計頭である。そこに込めた秀吉の思いとは・・・。

本多正信。家康の名参謀、子・正純は宇都宮城釣天井事件で失脚

本多正信。家康の名参謀、子・正純は宇都宮城釣天井事件で失脚

本多正信は徳川家康に「友」と呼ばれ、家康・秀忠に仕えた。相模国玉縄藩主。従五位下・佐渡守。本姓は藤原氏。江戸幕府・老中。家康の征夷大将軍就任のため朝廷との交渉に尽力。本願寺内部の対立を利用し分裂させ勢力を弱めている。江戸幕府では権勢を誇る。嫡男・正純に訓戒を残しているが、正純は「宇都宮城釣天井事件」にて失脚している。

本多平八郎忠勝。小松姫の実父であり、徳川四天王、徳川十六神将

本多平八郎忠勝。小松姫の実父であり、徳川四天王、徳川十六神将

徳川四天王、徳川十六神将である本多平八郎忠勝。上総大多喜藩主、伊勢桑名藩主。官位は従五位下・中務大輔。豪将であり義の人というイメージです。真田昌幸、信繁(幸村)の助命があるからだと思います。生涯57回の戦で一度も負けなかったが、死の数日前、小刀で手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまったことは有名である。

鳥居元忠。秀吉からの官位を断る家康への忠義、伏見城の戦いで戦死

鳥居元忠。秀吉からの官位を断る家康への忠義、伏見城の戦いで戦死

忠義の三河武士・鳥居元忠。徳川十六神将。豊臣秀吉からの官位の推挙は固辞。下総香取郡矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖。1600年(慶長5年)、伏見城の戦いで壮絶な最期をとげている。家康は伏見城の血染め畳を江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせている。伏見城の床板は「血天井」として現在も伝わる。

「源平藤橘」に次ぐ氏(うじ)「豊臣」を賜る秀吉。氏姓は豊臣朝臣

「源平藤橘」に次ぐ氏(うじ)「豊臣」を賜る秀吉。氏姓は豊臣朝臣

大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」の予告で秀吉演じる小日向文世が「とよとみのひでよし」と高らかに名乗っている。なるほどと思い「豊臣氏」について記事投稿します。豊臣氏は摂関家になった。藤原良房以来700年にわたって継続されてきた藤原氏の摂政関白が中断。秀吉は豊氏長者・藤氏長者でもあり武家関白制を目指すこととなった。

石田三成襲撃事件。三成と七将の対立~結城秀康と石田正宗

石田三成襲撃事件。三成と七将の対立~結城秀康と石田正宗

豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いまでの大きな出来事として「石田三成襲撃事件」がある。徳川家康の仲裁により石田三成は隠居させられます。豊臣政権の武断派と文治派の対立が表面化され、結果的に家康に利用されました。結城秀康は三成を佐和山城まで送り届け、三成から「名刀・正宗」を譲られている。秀康は「石田正宗」と名付け終生愛用。