細川ガラシャはキリスト教信徒(キリシタン)として有名。父は明智光秀、細川忠興の正室。本能寺の変後、しばらく幽閉されていたことも有名である。しかし細川ガラシャといえば、やはり壮絶な最期ではないだろうか。美談として語られることが多く、いろいろな題材として取り上げられている。最期については、当時の書物で書かれ方が違う。
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細川ガラシャといえば、美人で壮絶な最期をイメージするのだが・・・。
それではいってみよう!
目次
細川ガラシャ
細川ガラシャ(ほそかわガラシャ)。伽羅奢、迦羅奢。明智珠、明智玉(あけちたま)。1563年(永禄6年)~1600年(慶長5年)7月17日。
父は明智光秀。母は煕子。明智光秀の三女。細川忠興の正室。キリスト教信徒(キリシタン)として有名。
諱は「たま」(珠、玉)または玉子(たまこ)。
子は於長(おちょう:前野景定正室)、忠隆、興秋、忠利、多羅(たら:稲葉一通室)。
細川忠興の正室~本能寺の変
1563年(永禄6年)、明智光秀と妻・煕子の間に三女として越前に生まれる。
- 1578年(天正6年)、細川藤孝の嫡男・忠興に嫁ぐ。父・光秀の主君・織田信長のすすめによる。
- 1579年(天正7年)、長女・於長(おちょう:前野景定正室)が生まれる。
- 1580年(天正8年)、長男・忠隆(のちの長岡休無)が生まれる。
1582年(天正10年)6月、本能寺の変。父・光秀が主君・織田信長を討つ。珠は「逆臣の娘」となった。
忠興は1584年(天正12年)まで珠を丹後国・味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に幽閉した。
幽閉先だが、「丹波史」によると丹波・味土野に珠が隠棲していたとの伝承「丹波味土野説」がある。
伝承が事実なら、本能寺の変直後には、忠興は珠をまず明智領の丹波・味土野屋敷に送り返し、明智滅亡後に細川領の丹後・味土野に屋敷を作って珠を幽閉したとも考えられる。
キリシタン改宗
1584年(天正12年)3月、忠興は羽柴秀吉の取り成しにより、珠を細川家の大坂屋敷に戻した。次男・興秋が生まれる。
- 1586年(天正14年)、三男・忠利(幼名・光千代)が生まれる。
- 1587年(天正15年)2月11日、夫・忠興が九州征伐。
珠は出家した舅・藤孝とともに禅宗を信仰していたが、忠興が高山右近から聞いたカトリックの話をすると、その教えに心を魅かれていった。
夫・忠興が九州征伐のため不在の時、身を隠しつつ教会に行っている。洗礼を受ける事を望んだが、洗礼は見合わされた。
秀吉が九州でバテレン追放令を出した。珠は宣教師たちが九州に行く前に、イエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸で清原マリア(公家・清原枝賢の娘)から密かに洗礼を受けた。
洗礼名はガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意。ただしラテン語名に関して、ローマ・バチカン式発音により近い片仮名表記は「グラツィア」)。
ガラシャは夫・忠興に改宗したことを伝えていない。
ガラシャの最期
九州征伐から帰った忠興は5人の側室を持つといい、ガラシャに対して辛く接している。ガラシャは宣教師に離婚を打ち明けるが、キリスト教では離婚は認められていないため宣教師に説得された。
1600年(慶長5年)7月16日、忠興が上杉征伐(会津征伐)に従軍。
忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と命じていた。
西軍・石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャは拒絶している。よって三成は屋敷を囲んだ。
ガラシャは少し祈った後、侍女・婦人たちを外へ逃がした。家老・小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃。
辞世の句は、
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」
神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。
ガラシャの死後
1601年(慶長6年)、忠興はガラシャの死を悲しみ、オルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列した。
遺骨は大坂・崇禅寺へ改葬。京都大徳寺塔中高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされている。
ガラシャの子・忠隆の正室で前田利家の娘・千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れている。これに激怒した忠興は、忠隆に千世との離縁を命じた。
忠隆は反発し、勘当・廃嫡された。忠隆の子孫は細川一門家臣・長岡内膳家(別名:細川内膳家)となり、明治期に細川姓へ復している。
三男・忠利は次男・興秋を差し置いて家督相続をした。不満を抱いた興秋は大坂の陣で豊臣側に与している。
ガラシャの死は他家への影響が非常に大きく、東軍に恭順するものを増やした原因となっている。
その他のガラシャの最期
玉子は一般的に、キリシタンの戒律と夫の命を守り、自害することなく少斎の手にかかって死亡したとされている。
太田牛一の「関ヶ原御合戦双紙」では、自ら胸を刺したとある。河村文庫本では10歳の男児と8歳の女児を刺殺した後に自害とある。
「言経卿記」慶長五年七月十八日条では、
「大坂にて長岡越中守女房衆自害。同息子十二才・同妹六才ら、母切り殺し、刺し殺すなりと云々。」
とあり、玉子の子供たちの犠牲について、当時噂になっていたことが伺える。
「慶長見聞集」では、
「御内儀竝子息弐人、供の女三人自害」
とあり、少斎の他にも殉死者がいたとの噂は広がっていたようである。
大河ドラマ「真田丸」では橋本マナミが演じる
大河ドラマ「真田丸」では細川ガラシャを橋本マナミが演じる。
記憶が定かではないが、襖越しに槍で一突きなんてシーンもあったような気がする。大河ドラマ「黄金の日日」だっただろうか。
(2016-07-31追記)
「黄金の日日」もう一度見直しました。
槍ではなく、薙刀でした。それも侍女はできないというので、襖に描かれた「鹿」を薙刀で退治するように命令。襖の向こう側にガラシャが座り、最期を迎えるというシーンでした。
真田丸では第29話「異変」より登場!
真田丸で細川ガラシャの最期をどのように描いて、橋本マナミが演じるか楽しみである。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
細川ガラシャの最期は美談として語られることが多い。
真田丸で橋本マナミをキャスティングするということは、最期のシーンも描くのだろう。
期待している!
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。