犬伏の別れ。関ヶ原の戦いを前にした真田父子の別れ

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関ヶ原の戦いを前に、下野国犬伏(現在の佐野市)で真田昌幸、信幸、信繁父子は話し合いをする。信幸が徳川方、昌幸と信繁が豊臣方に分かれて戦うことを決断。「犬伏の別れ」である。どちらが勝っても真田の家が残るようにと言われている。信幸(信之)の正室の養父は徳川家康であり、信繁(幸村)の正室の父は大谷刑部少輔吉継であるのだか。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

「犬伏の別れ」の前後、会津・上杉征伐、第二次上田合戦、関ヶ原の戦いを交えながら記事投稿します。

それではいってみよう!

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会津征伐

1600年(慶長5年)5月、会津・上杉景勝の重臣・直江兼続は、天下への野望を隠さない徳川家康に対して、その所業を糾弾する「直江状」を送りつける。これにより家康は、会津征伐を決意する。

1600年(慶長5年)7月24日、家康は下野・小山で石田三成らの挙兵を知る。三成は家康により五奉行の職を解かれ佐和山城に蟄居していた。

家康一行は、小山評定により今後の対応を協議。景勝の抑えとして結城秀康を残し、三成に対峙するべく西上する。

会津征伐。直江状により上杉征伐を決意、関ヶ原の戦いの幕開け
太閤・豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は台頭した。ことごとく秀吉の遺命に背いた。勝手に諸大名の屋敷を訪れ、諸大名との縁組を行った。石田三成襲撃事件・徳川家康暗殺疑惑事件により、政敵・石田三成、前田利長を追い落とした。次のターゲットは、会津の上杉景勝。しかし会津征伐の真の狙いは・・・。
石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。
小山評定。家康包囲網を打破し、関ヶ原の戦い勝利の流れを作る
徳川家康は会津征伐のため下野小山に到着。鳥居元忠の使者から石田三成が挙兵し伏見城攻撃を開始した知らせを受ける。1600年(慶長5年)7月25日、会津征伐に従軍した諸大名を招集し軍議を開催。「小山評定」である。西軍・東軍の選別がなされ、東軍が一致団結した大きなイベントであることは間違いない。その流れで関ヶ原の戦いに至る。

犬伏の別れ

犬伏の別れ。関ヶ原の戦いを前にした真田父子の別れ,画像01

1600年(慶長5年)7月21日、会津・上杉討伐に向かっていた真田昌幸、信幸、信繁父子は、下野国犬伏(現在の佐野市)に到着し陣を張った。そこへ石田三成から豊臣方に味方するよう旨の密書が届いた。

この密書により父子三人で話し合い、どちらが勝っても真田の家が残るよう、信幸が徳川方、昌幸と信繁が豊臣方に分かれて戦うことを決断。これが「犬伏の別れ」といわれている。

父子の密談の舞台となったとされるのが、栃木県佐野市犬伏新町に現存する「新町薬師堂」です。

【武将ゆかりの地】新町薬師堂。真田家密談、犬伏の別れの舞台,画像02

真田信幸(信之)の正室・小松殿(小松姫)は、徳川家康の重臣・本多平八郎忠勝の娘で、養父は家康である。

真田信繁(幸村)の正室・竹林姫(竹林院)は、大谷刑部少輔吉継の娘である。

真田家重臣・河原綱家は、密談中に様子が気になって建物の戸を開けてしまった。怒った昌幸は履いていた下駄を投げつけ、河原綱家の前歯が欠けてしまったと言われている。

石田三成と真田昌幸を結ぶ姻戚関係。互いの正室が宇多頼忠の娘?
真田昌幸の正室・山手殿(寒松院)が、もし「宇多頼忠の娘」なら石田三成と昌幸は義理の兄弟だ。ドラマでは菊亭(今出川)晴季の娘、公家の娘という設定が多いが山手殿(寒松院)の出自については諸説ある。もし山手殿(寒松院)が「宇多頼忠の娘」なら、真田父子が東軍・西軍に別れた解釈も変わるのだろうか。考えただけでゾクゾクする。
大谷刑部少輔吉継。義の人、石田三成との友情~関ヶ原の戦いで散る
大谷吉継の前半生は少し謎の部分が多いです。「秀吉の隠し子説」は根拠がないが好きな話です。奉行としては優秀だったようです。大谷刑部に関しては賛否両論があり過大評価なんて声もあります。あまり解明されていないからミステリアスでもあり、人気があるのかもしれません。やはり関ヶ原の戦いでの強烈な奮戦と死に様でしょうか・・・。
河原綱家。犬伏の密談を覗き、真田昌幸に下駄を投げられ前歯を折る
河原綱家といえば、犬伏の密談を覗き、真田昌幸に下駄を投げられ前歯を折ることで有名である。綱家は、それ以降一生「すきっ歯」となってしまった。管理人も河原綱家に関する情報は、下駄しかなかったので調べてみた。

小松姫の逸話

真田昌幸は会津・上杉討伐からの上田への帰り途中、沼田城の小松姫に「孫に会いたい」というが、薙刀を持って武装している小松姫は拒否する。

夫の真田信幸(信之)が不在だったこともあるが、「敵味方に分かれているから」という理由である。昌幸は、すきあらば沼田城を乗っ取るつもりだったとさえいわれている。

ドラマ等で描かれている小松姫の有名なシーンであり、逸話である。

小松姫役は、2016年NHK大河ドラマ「真田丸」では吉田羊が演じ、1985年NHKドラマ「真田太平記」では紺野美沙子が演じている。

真田信幸(信之)と本多平八郎忠勝の娘、正室小松姫
弟真田信繁(幸村)と違って地味な印象がある真田信幸(信之)。しかし関ヶ原の戦い、大坂の陣を乗り越え真田家を残すのは真田信幸(信之)である。そして信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。その血筋は現在まで残る。信幸(信之)の正室は本多平八郎忠勝の娘、小松姫である。この二人に焦点をあてて記事投稿をします。
真田家と沼田城。真田信幸(信之)の正室・小松姫の逸話と平八岩。
沼田領問題のもとになる沼田城。交通の要所であり、各大名から見ても真っ先に取得したい城であった。事実、城の支配者は何回か交代する。豊臣秀吉による小田原征伐の火種にもなっている。紆余曲折ありながら、北条家滅亡後は、ふたたび真田家の支配となる。小松姫の逸話と平八岩を紹介しながら、おもに真田家と沼田城についての記事投稿です。

第二次上田合戦~関ヶ原の戦い

徳川家康は、息子・徳川秀忠を総大将に本隊を編成し、中山道から関ヶ原へむかわせる。家康自身は東海道から関ヶ原へ。

秀忠軍は、途中真田昌幸、信繁(幸村)が籠城する上田城を攻める。この時、真田信幸(信之)は秀忠軍の先棒をつとめ、真田昌幸、信繁(幸村)の説得にあったている。

しかし交渉は決裂し、秀忠軍は敗北。関ヶ原へむかうが遅参するという失態をおかしている。関ヶ原の戦いはというと、東軍の勝利。

戦後処理にて信幸(信之)は、本多平八郎忠勝を頼り、真田昌幸、信繁(幸村)の助命を嘆願。当然死罪と思われたが、九度山に流罪にとどまった。

第二次上田合戦、犬伏の別れにより真田父子が東軍・西軍に
第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)から15年。真田家と徳川家は上田城を舞台に再び激突した。真田昌幸の嫡男・信之は徳川秀忠方である。第一次上田合戦に続いて第二次上田合戦も真田家の勝利。秀忠は関ヶ原本戦には遅参。が関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わる。真田昌幸・信繁(幸村)は高野山に流罪。のちに九度山に流罪になる。
本多平八郎忠勝。小松姫の実父であり、徳川四天王、徳川十六神将
徳川四天王、徳川十六神将である本多平八郎忠勝。上総大多喜藩主、伊勢桑名藩主。官位は従五位下・中務大輔。豪将であり義の人というイメージです。真田昌幸、信繁(幸村)の助命があるからだと思います。生涯57回の戦で一度も負けなかったが、死の数日前、小刀で手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまったことは有名である。

新町薬師堂

【武将ゆかりの地】新町薬師堂。真田家密談、犬伏の別れの舞台,画像01

栃木県佐野市犬伏新町の「新町薬師堂」に行ってきました。

詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。もう一つの「犬伏の別れ」の地ともされます「大庵寺」についても記事投稿してます。

新町薬師堂。真田家密談、犬伏の別れの舞台。別れ橋・米山古墳
関東に在住する管理人が「新町薬師堂」に行ってみた。大河ドラマ「真田丸」第35話「犬伏」に遅れること一週間。念願の「新町薬師堂」だ。真田家ファンにとっては、聖地のような場所である。昼食は森田屋総本店。同日、足を伸ばして行った「史跡・小山評定跡」にも触れる。
大庵寺。もう一つの「犬伏の別れ」、小山評定後は徳川秀忠の宿所
関東に在住する管理人が栃木県佐野市の「大庵寺」に行ってみた。大庵寺を、もう一つの「犬伏の別れ」の地とする説がある。小山評定により会津征伐を取りやめ西上する事が取り決められた徳川秀忠が転進した際、大庵寺を宿所として利用したと伝えられている。新町薬師堂からは、すぐ近くです。

関連記事

関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。

2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

1985年新大型時代劇「真田太平記」レビュー記事

まとめ

豊臣方と徳川方といっていますが、西軍・東軍のほうがいいでしょうか(笑)。

この時点では、石田三成も徳川家康も豊臣家の家臣であります。その証拠に家康は、関ヶ原の戦いの戦勝報告を豊臣秀頼にして褒美をもらってます。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます。。。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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