大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」の予告で秀吉演じる小日向文世が「とよとみのひでよし」と高らかに名乗っている。なるほどと思い「豊臣氏」について記事投稿します。豊臣氏は摂関家になった。藤原良房以来700年にわたって継続されてきた藤原氏の摂政関白が中断。秀吉は豊氏長者・藤氏長者でもあり武家関白制を目指すこととなった。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
「豊臣氏」についてまとめてみた。「豊氏長者(ほうしちょうじゃ)」についても触れておく。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
とよとみのひでよし
大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」の予告で秀吉演じる小日向文世が「とよとみのひでよし」と高らかに名乗っている。なるほどと納得してしまった!
現代人である我々は「豊臣秀吉」を「とよとみひでよし」と読むが、正式には「とよとみのひでよし」だ。
簡単な例をあげ、考えてみると
- 藤原道長(ふじわらのみちなが)
- 平清盛(たいらのきよもり)
- 源頼朝(みなもとのよりとも)
いづれも「の」がついている。氏の場合は「の」がつく。
「とよとみのひでよし」には少し違和感があるが、なるほどねーと感心してしまった。
賜豊臣氏
1586年(天正14年)9月9日、秀吉は氏(うじ)「豊臣」を賜る。姓(かばね)は朝臣。「藤原」を出自とする。
秀吉は当初「平氏」を称している。これは主君・織田信長の氏を模倣したと考えられている。
「公卿補任」の1583年(天正11年)の項に「従四位下参議」としてはじめて記載されてから、関白になる直前の1585年(天正13年)「正二位内大臣」まで、その姓名は「平秀吉」と記されている。
秀吉は「関白相論」に介入して関白宣下をうけることになるのだが、直前に近衛前久の猶子となっている。
藤原氏改姓を行い、「藤原朝臣秀吉」として関白宣下をうけている。
もう一度確認しておくと、秀吉は「羽柴」から「豊臣」に改めたのではなく、「藤原」から「豊臣」に改めた。「羽柴」は名字であり「豊臣」は氏(うじ)である。
これにより「源平藤橘」(げんぺいとうきつ)に並ぶ「豊臣」という新しい氏(うじ)が創設された。
天下人・秀吉の力が強大であったかが推測される。
豊氏長者
ここで豊氏長者(ほうしちょうじゃ)についても書いておく。
藤氏長者・源氏長者らと同様に「豊臣氏」にも氏長者が設置されている。それが豊氏長者(ほうしちょうじゃ)だ。
秀吉は関白就任に際して、近衛前久に将来的には関白職を前久の子・信輔に譲る約束をしているが反故にしている。のちに関白職は信輔に譲らず甥で養子・秀次に譲位している。
豊氏長者は藤氏長者を兼ね、藤原摂関家(五摂家)から藤氏長者の地位・権限を奪っている。
どういうことかというと関白就任で秀吉は藤氏長者にもなっている。「豊臣氏」を賜った時に豊氏長者にもなっているので藤氏長者を兼ねている。よって藤原摂関家から藤氏長者の地位・権限を奪うことになったのである。
秀吉の場合と少し意味合いが違うが、ほかの氏長者を兼ねる例は過去にもあり、藤原氏全盛期のおりには藤氏長者は源氏長者なども兼ねていた。
「豊臣氏」は摂関家となった。
ちなみに近衛信尹(信輔)は1605年(慶長10年)、関白相論発生以来21年目にして関白に就任している。これにより五摂家による持ち回りが復活。
源平藤橘
源平藤橘(げんぺいとうきつ)。源平藤橘とは源氏・平氏・藤氏(藤原氏)・橘氏のこと。
この源平藤橘の並びは、武家として勢力のあった順番に並べられている。
ここで源平藤橘の氏姓を記述。
- 源氏:源朝臣(みなもとのあそん)
- 平氏:平朝臣(たいらのあそん)
- 藤氏(藤原氏):藤原朝臣(ふじわらのあそん)
- 橘氏:橘宿禰(たちばなのすくね)(のち橘朝臣(たちばなのあそん))
明治時代になって「氏」制度が廃止されるまで、新たな「氏(うじ)」は創設されなかった。「豊臣」が最後に創設された「氏(うじ)」になった。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
徳川家康は豊臣政権のもとでは本来の「源朝臣家康」ではなく「豊臣朝臣家康」を使用している。
1603年(慶長8年)、家康は「源朝臣家康」として将軍宣下をうけている。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。