備前宰相と呼ばれた宇喜多秀家。父は梟雄と称された宇喜多直家。母・円融院は秀吉の側室的存在であったとの説があります。秀吉の寵愛を受けて猶子となった。秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗る。正室は秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫。宇喜多騒動なども解説。
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宇喜多秀家について調べてみた。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
目次
宇喜多秀家
宇喜多秀家(うきたひでいえ)。1572年(元亀3年)~1655年(明暦元年)11月20日。父は宇喜多直家。母は円融院(鷹取氏)。
名は家氏(初名)、秀家、成元(号)。別名は羽柴秀家、豊臣秀家。通称は八郎、備前宰相。号は成元、休復/久福。
猶父は豊臣秀吉。五大老の一人。従三位・侍従、参議、左近衛権中将、権中納言。備前美作57万4,000石。
墓所は東京都八丈町大賀郷の稲場墓地、丹船山薬王樹院東光寺(東京都板橋区)。戒名は尊光院殿秀月久福大居士。
宇喜多秀家の妻子・兄弟
宇喜多秀家の妻子・兄弟をまとめる。
- 正室:豪姫(豊臣秀吉の養女、前田利家の娘)
- 側室:不明
兄弟・姉妹
- 三浦桃寿丸(異父兄)
- 宇喜多基家(宇喜多春家の実子で宇喜多直家の養子)
- 女子(江原親次室)
- 女子(浦上宗辰室)
- 女子(松田元賢室)
- 容光院(吉川広家室)
- 女子(後藤勝基室)
- 女子(斎村政広室)
- 女子(明石全登室)
- 女子(赤松左兵衛佐広秀室)
- 女子(松田(杉田?)左近将監元堅(元賢?)室)
- 女子(伊賀左衛門久隆室)
子女
- 宇喜多秀高、宇喜多秀規[異説]
- 宇喜多秀継
- 長女・貞姫、理松院(前田利長養女、山崎長郷室→富田重家室)あるいは(前田修理室)
- 次女・冨利姫(ふりひめ)、先勝院(前田利長養女、伏見宮貞清親王妃)
庶子説
宇喜多太兵衛[異説](栗田太兵衛)
養子
女子(宇喜多忠家の娘、富田信高室)
家督相続
1572年(元亀3年)、備前国岡山城主・宇喜多直家の次男として生まれる。通称は八郎。
- 1581年(天正9年)、父・直家が病死。
- 1582年(天正10年)、家督相続。従属していた織田信長の計らいにより幼少ながら本領を安堵された。
- 1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変。この時、秀家11歳。
宇喜多軍は中国遠征を進めていた羽柴秀吉の遠征軍に組み込まれ、備中高松城攻めに協力。
秀家は幼少のため、叔父の宇喜多忠家が代理として軍を率いて、戸川秀安や長船貞親ら直家以来の重臣が秀家を補佐。
本能寺の変時、秀吉と毛利輝元は和睦し、秀家は所領安堵された。備中東部から美作・備前を領有する大大名となり、大国・毛利家の監視役を務めた。
備前宰相~従三位・権中納言
元服のおり豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗る。秀吉の寵愛を受けて猶子となっている。母・円融院が秀吉の側室的存在であったとの説がある。
- 1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦い。大坂城を守備し、雑賀衆の侵攻を撃退。
- 1585年(天正13年)3月、紀州征伐。
- 1586年(天正14年)、正室に秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を迎える。外様ながら秀吉の一門衆としての扱いを受ける。
紀州征伐ののち四国攻めに参加。阿波戦線に加わっている。
- 1586年(天正14年)、九州征伐。日向戦線に参加。
- 1587年(天正15年)、豊臣姓(本姓)と羽柴氏(名字)を与えられる。
- 1590年(天正18年)、小田原征伐。
- 1592年(文禄元年)、文禄の役。大将として出陣。都漢城に入って京畿道の平定に当たる。
- 1593年(文禄2年)1月、碧蹄館の戦い。小早川隆景らとともに李如松率いる明軍を撃破。
- 1593年(文禄2年)6月、晋州城攻略。
- 1594年(文禄3年)、文禄の役などの功により、参議から従三位・中納言に昇叙。
- 1597年(慶長2年)、慶長の役。毛利秀元と共に監軍として渡海。
- 1598年(慶長3年)、日本に帰国。五大老就任。
- 1598年(慶長3年)8月、豊臣秀吉が死去。
慶長の役では左軍を率いて南原城攻略、全羅道、忠清道を席捲。順天倭城の築城などで活躍。
宇喜多騒動
1599年(慶長4年)、重臣・戸川達安・岡利勝らが、側近・中村次郎兵衛の処分を秀家に迫った。秀家はこれを拒否。
中村は前田家に逃れ、戸川らが大坂の屋敷を占拠した。いわゆる宇喜多騒動である。
秀家は首謀者・戸川達安の暗殺を図るが、秀家と対立していた宇喜多詮家(坂崎直盛)が達安をかばって大坂玉造の自邸へ立て籠もった。
騒動の調停は越前敦賀城主・大谷吉継と徳川家重臣・榊原康政が請け負った。康政は国許での政務が滞り家康より叱責をうけた。康政は国許へ帰った。
秀家・戸川らの対立は解消されず、吉継も手を引かざるをえなくなった。徳川家康が裁断し、内乱は回避。戸川らは他家にて預かり・蟄居処分となった。
騒動の結果、戸川・岡ら直家以来の優秀な家臣団や一門衆の多くが宇喜多家を退去。宇喜多家の軍事的・政治的衰退につながる。
騒動の原因は、
- 家臣団の政治的内紛
- 秀家の素行に問題
- 宇喜多家執政・長船綱直、奉行人・中村次郎兵衛らの専横への他の重臣の不満
- 秀家は豪姫がキリシタンであったことから家臣団に対してキリシタンへ改宗するよう命令した
といわれている。
宇喜多家では日蓮宗徒の家臣が多かった。
関ヶ原の戦い
1599年(慶長4年)、豊臣秀頼後見役・前田利家が死去。豊臣家内で武断派の加藤清正・福島正則らと、文治派の石田三成・小西行長らとの派閥抗争が表面化。
結果、五大老・徳川家康が、豊臣家における影響力を強めた。
清正ら武闘派七将による石田三成襲撃事件のおり、秀家は佐竹義宣とともに三成を救出。
1600年(慶長5年)、徳川家康が上杉討伐のため会津征伐。石田三成が毛利輝元を盟主に担ぎ挙兵。
秀家は西軍の副大将として石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発した。伏見城の戦いでは総大将として参加。
関ヶ原の戦いにおいては西軍主力(西軍の中では最大の1万7,000人)として戦い、東軍の福島正則隊と戦闘を繰り広げた。
豊臣一門・小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅。
八丈島に流刑
関ヶ原の戦い後、宇喜多家は改易。秀家は伊吹山中に逃げ込み、矢野五右衛門に匿われる。その後は変装して薩摩国の島津義弘などを頼って落ち延び、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)に匿われた。
1603年(慶長8年)、島津忠恒(義弘の子)により家康のもとへ身柄を引き渡された。島津忠恒、縁戚・前田利長の懇願により死罪は免れ、駿河国・久能山へ幽閉された。
1606年(慶長11年)4月、八丈島へ配流。八丈島では苗字を浮田、号を久福と改めた。
正室・豪姫の実家である加賀前田氏・宇喜多旧臣であった花房正成らの援助を受けたが、八丈島での生活は不自由であったといわれている。
1655年(明暦元年)11月20日、死去。享年84。
時は江戸幕府第4代将軍・徳川家綱の治世であった。
宇喜多秀家の子孫
秀家と共に流刑となった長男と次男の子孫が八丈島で血脈を伝え、後に分家が三家興った。
明治以後、宇喜多一族は東京本土に移住したが、数年後に八丈島に戻った子孫の家系が現在も墓を守り続けている。
秀家が釣りをしていたと伝わる八丈島・大賀郷の南原海岸には、西(備前国)を臨む秀家と豪姫の石像が建てられている。
正室・豪姫の戒名は「樹正院殿命室寿晃大禅定尼」。墓所は石川県金沢市野町の宝池山功徳院大蓮寺。
大河ドラマ「真田丸」では高橋和也が演じる
大河ドラマ「真田丸」では宇喜多秀家を高橋和也が演じる。
古い話だが、高橋和也といえば男闘呼組である。
元男闘呼組の岡本健一も毛利勝永役に決定しているので楽しみである。
どうやら真田丸において宇喜多秀家は松岡修造ばりの熱血キャラのようである(笑)
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
大河ドラマ「真田丸」に宇喜多秀家が登場するので調べてみました。
宇喜多騒動は描かれないと思うけど、関ヶ原の戦いは楽しみである。西軍ガンバレ!
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。