映画「のぼうの城」を見る機会があったので、行田市忍城について調べました。おもに成田氏と忍城の戦いについての記事投稿をします。忍城の戦いは日本三大水攻めの一つに数えられる。石田三成が落城させることができなかったあの戦いである。つけくわえるならば豊臣秀吉の小田原攻めの最中の戦いである。忍城を治めていたのが成田氏です。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
映画「のぼうの城」の忍城の戦いをメインに、すこし成田氏についても触れたいと思います。
それではいってみよう!
のぼうの城
最初は映画の「のぼうの城」について。
原作は和田竜「のぼうの城」。犬童一心と樋口真嗣の共同監督で、2010年夏より製作開始、東宝とアスミック・エースの配給で2012年11月2日に公開された。TBS開局60周年記念作品。主演は野村萬斎。
おもなキャストをピックアップします。ほかキャストは割愛します。
- 成田長親:野村萬斎
- 甲斐姫:榮倉奈々
- 正木丹波守利英:佐藤浩市
- 酒巻靭負:成宮寛貴
- 柴崎和泉守:山口智充
- 石田三成:上地雄輔
- 大谷吉継:山田孝之
- 長束正家:平岳大
管理人はDVD、地上波で何回か視聴しました。管理人の記憶が正しければ、2016年1月中に地上波で放映されます。
忍城と成田氏
1478年(文明10年)頃、地元の豪族であった成田正等・顕泰父子がこの地を支配していた扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼし、築城したといわれている。
翌年、これに反発する扇谷上杉家に忍城を攻められるものの、同家の家宰太田道灌の仲介によって和解して以後、成田氏が領有した。河越夜戦後、北条氏が関東に勢力を伸ばすが、成田氏はこれに反発した。
1559年(永禄2年)、上杉謙信が関東に遠征してくると、成田氏はこれに恭順した。1561年(永禄4年)の上杉謙信による小田原城攻めには、当時の城主の成田長泰も参加している(小田原城の戦い)。
しかし、鶴岡八幡宮での関東管領就任式後に離反。1574年(天正2年)には上杉謙信に忍城が包囲され、城下に火を放たれたが、持ちこたえている。
この関東管領就任式で一悶着あったのは知ってました。たしか成田長泰が上杉謙信を「関東管領」として認めない発言をしたというあれです。
関東管領っていうのは、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である「鎌倉公方」を補佐するために設置した役職名である。
山内上杉家の上杉憲政が北条氏に対抗するため、家督と関東管領職を長尾景虎(上杉謙信)に譲ってます。
よって成田氏は、北条氏に属し、所領を安堵されています。成田氏というのは忍城を統治する地方豪族です。
忍城の戦い
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の関東平定の際、城主・成田氏長は小田原城にて籠城。従兄弟の成田長親を城代とし、家臣と農民ら3,000の兵が忍城に立てこもった。これが忍城の戦いである。
豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成である。映画「のぼうの城」では、石田三成は成田氏が既に降伏を決めていることを知りながら、戦を仕掛けるため、あえて傲慢な振る舞いをする軍使長束正家を使者として遣わせ、まんまと策略にはまった総大将・長親は「戦」を選択したという風に描かれてます。
最初地の利と士気の高さから、緒戦は忍城側の圧勝であった。しかし石田三成は、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定する。総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を建設し、忍城は本丸を除いては城下を含めて水に沈む。
しかし水攻めは失敗し、水が引き、三成軍が総攻撃を行おうとする矢先、小田原城が落城したとの知らせが成田勢にももたらされ、忍城も開城する。小田原城落城時までもちこたえた支城は忍城だけだった。
この忍城の戦いは日本三大水攻めの一つに数えられる。日本三大水攻めとは、備中高松城攻め、紀州太田城攻め、そして忍城の戦いです。
忍城水攻めは完全に失敗である。やはり石田三成は「武の人」ではなく、「文の人」つまり官吏である。石田三成の性格もあるだろうが、このへんが福島正則、加藤清正など豊臣恩顧の武闘派と対立した原因なのだろうか・・・。
余談ではあるが、忍城の戦いには「真田丸」でお馴染みの真田昌幸、真田信繁(幸村)親子も豊臣方として参戦している。
以上が忍城の戦いと忍城を統治した成田氏である。
忍城の戦いの詳細
前述で忍城の戦いを書いたがもう少し詳しく書く。
豊臣秀吉の小田原征伐が決定すると、成田家当主・成田氏長と成田泰親は小田原城に詰め、忍城には成田泰季と成田長親、甲斐姫らが籠城することになった。
豊臣軍は北条方の支城を次々と落として小田原へ向け進軍し、その途上にある忍城も攻略しようとした。
三成が水攻めの考案者であるとされるが、秀吉からの指示であるとの説もある。
かくして忍城水攻めが始まった。予想に反して、本丸は沈まなかった。
- 1590年(天正18年)6月17日、石田三成が丸墓山古墳に陣を構えた。籠城側は成田泰季が病死し、成田長親が指揮を任された。
- 1590年(天正18年)6月18日、豪雨の影響で本丸まで水没しそうになる。本庄泰展の配下の脇本利助、坂本兵衛らが堤防を2箇所破壊。豊臣軍約270人が死亡。
- 1590年(天正18年)6月下旬、浅野長政、真田昌幸・信繁父子らが6,000の兵で援軍。
守備側の成田近江守と市田太郎が長政に内通の密使を遣わすが、功を奪われることを恐れた三成は長政を騙し申し出を拒否。
- 1590年(天正18年)7月1日、三成の指示で長政は行田口に近づいたが、猛攻を加えられ敗走。
- 1590年(天正18年)7月5日、忍城総攻撃が計画された。
下忍口から石田三成、長野口から浅野長政、佐間口から大谷吉継が攻撃を仕掛ける予定であった。
焦った三成は抜け駆けし、それを知った長政は激怒し長束正家隊と共に夜営していた成田方を蹴散らして行田口に殺到。
行田口の今村佐渡守と島田出羽守が防いだ。行田口の猛攻をを知った正木丹波守が浅野・長束隊の背後に回り込み攻撃、600近い損害を出して長政らは敗走。
佐間口を攻撃していた吉継も苦戦し、前に進めなかった。そこへ正木丹波守隊が突撃、大谷隊は撤退。
下忍口の石田三成は、城壁を背に背水の陣を敷いた守将・酒巻靱負に死者300、負傷者800という大損害を与えられ大敗し撤退。忍城総攻撃は失敗。
忍城総攻撃の日、小田原城が降伏・開城し後北条氏が滅亡したことにより7月16日、忍城は開城。
参加武将
忍城の戦いのおもな参加武将。
(豊臣軍)
- 石田三成
- 大谷吉継
- 長束正家
- 真田昌幸
- 真田信繁
- 直江兼続
- 佐竹義宣
- 北条氏勝
- 多賀谷重経
- 浅野長政
- 鈴木重朝
(籠城軍)
- 成田泰季
- 成田長親
- 本庄泰展
- 今村佐渡守
- 島田出羽守
- 正木丹波守
- 酒巻靱負
- 柴崎和泉守
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
忍城の戦い後の成田氏
最後に忍城の戦い後の成田氏がどうなったかを書いて終わりにしたいと思います。
忍城の戦い後、豊臣秀吉によって一時所領を失う。しかし成田氏長の娘・甲斐姫が豊臣秀吉の側室として寵愛を受けるなどの幸運にも恵まれ、大名として返り咲き下野国烏山を領した。
成田氏長の後は、弟の成田長忠が家督を継ぎ、関ヶ原の戦いでは徳川方として参戦。その子の代に後継者争いのため改易。子孫は御家人、旗本となった。
「のぼうの城」の成田長親は、当主氏長とともに会津の蒲生氏郷のもとに一時身を寄せたのち、下野国烏山へと移り住むが氏長と不和になり出奔。出家して自永斎と称し、晩年は尾張国に住んだ。
他3人のその後。
- 酒巻靱負:靱負(ゆきえ)は官職名。現在の埼玉県羽生市上手子林(かみてこばやし)に土着。子孫は現存。
- 柴崎和泉守敦英:忍城開城後は土着したと伝わり、現在も子孫は行田市に居住。
- 正木丹波守利英:忍城開城後は妻子を会津へ向かわせ、自らは出家して行田の地に残り高源寺を開基。
忍城・丸墓山古墳
「忍城」「丸墓山古墳」に行ってきました。
詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
まとめ
映画「のぼうの城」をきっかけに、忍城を調べてみました。
この記事を元に、もう一度2016年1月中に地上波での放映を楽しもうって思ってます。たぶん放映されると思うんだけど(笑)。
この記事が映画「のぼうの城」を視聴する際の、参考になればって思ってます。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。