豊臣秀勝。正室は江、小吉秀勝。娘・完子の子孫は大正天皇の貞明皇后

豊臣秀勝。正室は江、小吉秀勝。娘・完子の子孫は大正天皇の貞明皇后,アイキャッチ画像
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豊臣秀勝。正室は江(淀殿の妹・のち徳川秀忠の正室)。兄は関白・豊臣秀次。母は豊臣秀吉の姉・瑞龍院日秀。他の秀勝との呼び分けとして、小吉秀勝と呼ぶことがある。官位は正三位・中納言。文禄の役で戦病死。娘・完子の子孫は大正天皇の貞明皇后。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

関白・豊臣秀次の弟・豊臣小吉秀勝について記事投稿する。

歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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豊臣秀勝

豊臣秀勝(とよとみひでかつ/とよとみのひでかつ)。1569年(永禄12年)~1592年(文禄元年)9月9日。父は三好吉房。母は瑞龍院日秀(豊臣秀吉の姉)。

幼名は小吉。通称は丹波少将、丹波中納言、丹波宰相。養父は豊臣秀吉。官位は正三位・中納言。

兄弟は秀次、秀保。義兄弟は秀勝(石松丸)、鶴松、豊臣秀頼、秀勝(於次丸)、秀俊(小早川秀秋)、豪姫=秀家(宇喜多秀家)、秀康(結城秀康)。

正室は江(浅井長政の三女・淀殿の妹)。子は完子。

墓所は善正寺。戒名は光徳院陽巖。

他の秀勝との呼び分けとして、小吉秀勝(または三好秀勝)と呼ぶことがある。

豊臣秀頼。母は淀殿、豊臣家の公達。本当に秀吉の実子なのか?
秀頼が誕生したことにより、多くの人の運命が狂った。別に秀頼のせいではないが、豊臣秀次は典型的な人物であろう。秀次死後、秀吉の期待を一心に背負い秀頼は成長する。豊臣家のプリンス・公達として・・・。豊臣政権の永続を願い崩壊が始まってることに気づかず秀吉は死んだ。そして豊臣政権は永続しなかった・・・。
小早川秀秋。秀吉の養子、金吾中納言~関ヶ原の戦いで西軍を裏切る
小早川秀秋といえば関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったということになるが・・・。通称「金吾中納言」も有名である。飲酒についてはかなり好きだったようであるというか、飲まなければプレッシャーがありやってられなかったのだろうか。気持ちはわかる。天下人が叔父というのはかなりのもんだと思う。そういう意味では同情してしまう・・・。
宇喜多秀家。備前宰相、関ヶ原の戦いでは西軍の副大将。八丈島に流刑
備前宰相と呼ばれた宇喜多秀家。父は梟雄と称された宇喜多直家。母・円融院は秀吉の側室的存在であったとの説があります。秀吉の寵愛を受けて猶子となった。秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗る。正室は秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫。宇喜多騒動なども解説。

甲斐信濃23万石

1569年(永禄12年)、秀吉の姉・日秀(とも)と三好吉房の次男として生まれる。幼名は小吉。奈良・興福寺の「多聞院日記」によれば、小吉は隻眼であったと言われる。

  • 1585年(天正13年)、羽柴秀勝(=於次秀勝)が病死。直後、秀吉の養子となったと考えられる。
  • 1587年(天正15年)、九州征伐。十一番隊5千人を率いて従軍。豊前・岩石城攻めの総大将。

一説によると、小吉秀勝は於次秀勝の諱とともに官位と所領を受け継いだと言われる。丹波・亀山城主となり左近衛権少将にも任じられたので、「丹波少将」と呼ばれた。

小吉秀勝は於次秀勝とは違って、跡取りとは見なされていない。のち兄・秀次が秀吉の養嗣子となる。

正室・江(崇源院)との婚儀は、1585年(天正13年)以降か、1592年(文禄元年)とする説が有力。

九州征伐のおり、豊前・岩石城攻めを主張したのは蒲生氏郷・前田利長であった。この城は力攻めによって落とされるが、武功は秀勝のものとなった。

戦後の論功行賞の席で、秀勝は丹波・亀山10万石では知行が不足であると不平を訴えた。よって秀吉の怒りを買い所領没収、除封。丹波亀山は豊臣秀長のものとなる。

  • 1588年(天正16年)、豊臣姓を下賜。
  • 1589年(天正17年)10月、蜂屋頼隆が死去。子がなかったため断絶。遺領5万石と私財を秀勝が引き継ぎ、敦賀城主となる。
  • 1590年(天正18年)、小田原征伐。
  • 1590年(天正18年)11月、関東に転封された徳川家康の備えとして甲斐国・信濃国に転封。甲斐・府中(躑躅ヶ崎館)に移る。

敦賀城主だが、後年の軍記では敦賀城は大谷吉継に与えられたとの異説がある。

秀勝の甲斐支配は8ヶ月あまりであった。郡内地方や河内における検地の実施を試みており、寺社への寺領安堵や禁制、中道往還の右左口に対する諸役免許発行などの行政をおこなった。

江(崇源院)。浅井三姉妹の末っ子、徳川秀忠の正室。位階は従一位
浅井三姉妹の末っ子で、徳川秀忠の正室・江(崇源院)。淀殿の妹ということもあり、きつい性格な人物であると思っていた。やはり小説・ドラマの影響からか間違って伝わっている部分が多い。調べてみるもんです。それと徳川将軍御台所(正室)で将軍生母となったのは、崇源院だけということにはびっくりした。
「源平藤橘」に次ぐ氏(うじ)「豊臣」を賜る秀吉。氏姓は豊臣朝臣
大河ドラマ「真田丸」第14話「大坂」の予告で秀吉演じる小日向文世が「とよとみのひでよし」と高らかに名乗っている。なるほどと思い「豊臣氏」について記事投稿します。豊臣氏は摂関家になった。藤原良房以来700年にわたって継続されてきた藤原氏の摂政関白が中断。秀吉は豊氏長者・藤氏長者でもあり武家関白制を目指すこととなった。
豊臣秀次。殺生関白の表現もあるが、文化人・教養人としての一面も
天下人・豊臣秀吉の甥になる豊臣秀次。少年期は叔父・秀吉の立場に振り回され養子に出される。殺生関白の記述もあり、悪行はあったにせよ文化人・教養人であったとも言われる。秀吉により関白・豊臣家の家督を継いだ。これが悲劇の始まりであったのかもしれない。もし関白になっていなかったなら・・・。秀次の最期は壮絶の一言であろう。
大谷刑部少輔吉継。義の人、石田三成との友情~関ヶ原の戦いで散る
大谷吉継の前半生は少し謎の部分が多いです。「秀吉の隠し子説」は根拠がないが好きな話です。奉行としては優秀だったようです。大谷刑部に関しては賛否両論があり過大評価なんて声もあります。あまり解明されていないからミステリアスでもあり、人気があるのかもしれません。やはり関ヶ原の戦いでの強烈な奮戦と死に様でしょうか・・・。

文禄の役

豊臣秀勝。正室は江、小吉秀勝。娘・完子の子孫は大正天皇の貞明皇后,画像01

母・瑞龍院日秀は甲斐は遠すぎると秀吉に嘆願を続けた。

  • 1591年(天正19年)3月、美濃・岐阜城へと転封。甲斐信濃23万石は加藤光泰に与えられた。
  • 1591年(天正19年)8月、秀吉の嫡男・鶴松が死去。
  • 1591年(天正19年)11月、兄・秀次が秀吉の養嗣子となる。秀勝は従四位下・参議に任官。
  • 1591年(天正19年)12月、兄・秀次が関白となる。

弟・秀保は、1591年(天正19年)1月、豊臣秀長の婿養子となって秀長の娘「おきく」と婚約。秀長が亡くなると旧領大和100万石を相続して、大和中納言と称される。

  • 1592年(文禄元年)、文禄の役。岐阜兵8,000の兵を率いて、九番隊の大将として出征。
  • 1592年(文禄元年)4月下旬、細川忠興らを率いて、壱岐島から朝鮮国・巨済島に渡る。
  • 1592年(文禄元年)9月9日、病を発して、戦病死。享年23。

遺領の岐阜城と九番隊の指揮権はそのまま織田秀信に与えられた。

豊臣秀長。兄・秀吉を支える豊臣家の良識、大和宰相~大和大納言
羽柴(豊臣)秀長。兄・秀吉を支える豊臣家の良識。もとは尾張国中村生まれの百姓である。兄・秀吉が天下人になると100万石を超える大大名になった。領地と官位から大和宰相、大和大納言と呼ばれた。豊臣政権では政権運営の調整役であり、政権の安定には欠かせぬ人物だった。また秀吉に異を唱え制御できる唯一の人物であったのだが・・・。
豊臣秀保(羽柴秀保)。義父・豊臣秀長から通称は大和中納言
豊臣秀保(羽柴秀保)。兄は関白・豊臣秀次。母は豊臣秀吉の姉・瑞龍院日秀。正室・おきくは豊臣秀長の娘なので従姉妹になり、秀長は叔父であり養父になる。一時期は関白候補とする資料も残されている。死因については病死となっているが、資料によっては溺死とも書かれている。
羽柴秀吉、関白相論に介入して関白宣下。武家関白制をめざす
羽柴(豊臣)秀吉は武家関白制を目指します。征夷大将軍就任を断った説もありますが定かではありません。秀吉の登場により朝廷は混乱。五摂家による関白の持ち回りの崩壊、気前よく官位を与えたことにより官位が不足。秀頼誕生により秀次事件。秀吉死後、関白不在、大臣は徳川家康だけでした。秀吉が秀頼のために空位にしていたのです・・・。

娘・完子

1592年(文禄元年)もしくは翌年に娘・完子が誕生している。完子は、正室・江の姉である淀殿に養育された。

のち九条幸家に嫁ぎ、完子の子孫が大正天皇の貞明皇后となり、現在の皇室・宮家となっている。

正室・江は1595年(文禄3年)、徳川秀忠に再嫁。

1600年(慶長5年)、母・瑞龍院日秀は善正寺を上京区岡崎(現左京区岡崎)に移す。秀勝の墓も移された。

が、豊臣秀次の墓として誤伝され、豊臣秀勝に碑銘の残った墓はない。

淀殿(茶々)。豊臣秀吉の側室、秀頼の母、母は織田信長の妹・市
豊臣秀吉の側室・淀殿。父は浅井長政で、母は織田信長の妹・市。同母妹は初、江。子は鶴松、秀頼。猶女は完子。本名は茶々、菊子。秀吉の側室となってからは皆さんご存知だろう。秀吉が登場するドラマには欠かせない人物である。淀殿に「菊子」という名があるのは知りませんでした。淀殿といえば大坂冬の陣・大坂夏の陣なのだが・・・。
徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源
徳川秀忠は地味な印象を与えてしまう。関ヶ原の戦いに遅れたことが目立つが、調べていくと秀忠のイメージが変わった。遅参に関しても諸説があり、一概に秀忠だけを責めることはできない。それよりも征夷大将軍への就任、以降に行ったことは徳川政権が長期的に続いたことを考えると果たした役割は大きい。

大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」ではAKIRAが演じる

2011年放送の大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」では豊臣秀勝をEXILE・AKIRAが演じた。

正室・江は主人公であり、女優・上野樹里が演じている。

参考サイト

参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。

豊臣秀勝 – Wikipedia

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2016年大河ドラマ「真田丸」レビュー記事

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まとめ

小吉秀勝の娘・完子の子孫が大正天皇の貞明皇后とは知りませんでした。調べてみるもんです。

この三兄弟、みな早死です。いくら人間五十年の時代でも、その半分とは・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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