羽柴(豊臣)秀長。兄・秀吉を支える豊臣家の良識。もとは尾張国中村生まれの百姓である。兄・秀吉が天下人になると100万石を超える大大名になった。領地と官位から大和宰相、大和大納言と呼ばれた。豊臣政権では政権運営の調整役であり、政権の安定には欠かせぬ人物だった。また秀吉に異を唱え制御できる唯一の人物であったのだが・・・。
こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。
豊臣家の人々を狂気であるとするならば、羽柴秀長は唯一まともな人物であるイメージがある・・・。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
目次
豊臣秀長
豊臣秀長(とよとみのひでなが/とよとみひでなが)。羽柴秀長(はしばひでなが)。1540年(天文9年)3月2日~1591年(天正19年)1月22日。
父は竹阿弥。母は仲(大政所)。尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)生まれ。
改名は木下長秀、羽柴秀長、豊臣秀長。幼名は小竹。通称は小一郎。別名は大和大納言。
兄弟は智、秀吉、旭。官位は従二位・権大納言。妻は智雲院。
子は小一郎(夭折)、おきく(豊臣秀保室)、大善院(毛利秀元室)。養子は秀保、仙丸、岩(名古屋山三郎の妹。小一郎室、のちに森忠政室)。
墓所は奈良県大和郡山市(大納言塚)、京都市大徳寺大光院。戒名は大光院殿前亜相春岳紹栄大居士。
備中高松城の戦いまで
兄・秀吉とは異父弟ということになってるが、同父弟説もある。
秀吉に仕え始めた時期の正確な記述はなく、秀吉と「ねね(高台院)」との婚礼(1564年(永禄7年))の後という説が多数である。
- 1573年(天正元年)、兄・秀吉が長浜城主となる。城代を務めることもあり、秀吉と丹羽長秀または織田信長から一字ずつ貰って長秀(後に秀長と改名)の諱を使用し始める。
- 1574年(天正2年)、秀吉の代理で長島一向一揆討伐に出陣。
- 1575年(天正3年)、羽柴の名字を与えられる。
- 1577年(天正5年)、播磨国に赴き、但馬攻めに参戦。竹田城の戦いにより竹田城が斎村政広によって落城。竹田城代。
- 1578年(天正6年)、別所長治が反旗を翻し制圧。再度、但馬攻め。黒井城の戦いに援軍として参戦。
- 1579年(天正7年)、別所長治の三木城への補給を断つため丹生山を襲撃。三木合戦。
- 1580年(天正8年)1月、別所一族が切腹することにより三木合戦が終戦。
- 1580年(天正8年)、秀吉軍が山名氏の但馬出石城・有子山城を落城させ、当主・山名祐豊を滅ぼし但馬国平定。出石城主となる。
- 1581年(天正9年)3月、毛利家・吉川経家が鳥取城に入城。鳥取城の戦いにより秀吉は鳥取城を兵糧攻めにする。
- 1581年(天正9年)10月、経家の切腹により終戦。
- 1582年(天正10年)4月、備中高松城の戦い。秀吉軍は備中・高松城を包囲し、水攻めにする。
- 1582年(天正10年)6月、城主・清水宗治が切腹。
秀長は兄・秀吉の信任厚く、秀吉陣営の最重要の人物に成長している。
本能寺の変~四国攻め
本能寺の変から四国平定までを簡単にまとめた。
- 1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変。明智光秀の謀反により織田信長が横死。
- 1582年(天正10年)6月、中国大返し。毛利家と和睦協定を結び、畿内へ撤退を開始。
- 1582年(天正10年)6月、山崎の戦い。黒田孝高と共に天王山の守備にあたる。
- 1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦い。美濃守に任官。播磨・但馬の2ヶ国を拝領して姫路城を居城とする。
- 1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦い。秀長は守山に進軍し、織田信雄を監視。信雄との講和交渉では秀吉の名代として直接交渉に赴く。
- 1585年(天正13年)、紀州征伐。秀次と共に秀吉の副将となる。紀伊・和泉などの約64万石余の所領を与えられる。
- 1585年(天正13年)、和歌山城の築城。藤堂高虎を普請奉行に任命。
小牧・長久手の戦いでは甥・羽柴秀次が失態により秀吉に激しく叱責されたが、その後の紀伊・四国への遠征では秀長と共に従軍し、秀吉に対する秀次の信頼回復に尽力をしている。
- 1585年(天正13年)6月、四国攻め。病気で出陣できない秀吉の代理人として、10万を超える軍勢の総大将になっている。
- 1585年(天正13年)閏8月、長宗我部元親を降した功績を賞され、播磨国、但馬に、大和国を加増されて、合計100万石で郡山城に入る。
秀長は盗賊の追補を通達(廊坊家文書)、検地実施(諸家単一文書)、全5ヶ条の掟の制定(法隆寺文書)を行うなど多くの政策を実施するなど内政面でも辣腕であった。
豊臣政権
豊臣政権での秀長を簡単にまとめた。
- 1586年(天正14年)2月8日、摂津国・有馬湯治。この頃より体調が崩れやすくなった。湯治中に金蔵院・宝光院などが見舞いとして訪れており、本願寺顕如からも使者が訪れている。
- 1586年(天正14年)10月26日、徳川家康が大坂に到着。秀長邸に宿泊。秀吉自ら家康の前に現れて臣従を求める出来事が起きている。
- 1586年(天正14年)、大友宗麟が島津氏の圧迫により窮地に陥った。秀吉の参戦介入と救済を求めて上洛。
- 1586年(天正14年)8月、北山一揆。秀長も出陣したが、豪雪のため征伐は留まっている。
秀吉は大友宗麟を親切にもてなし「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と述べた。
- 1587年(天正15年)、九州平定。日向方面の総大将として出陣。耳川の戦い、根白坂の戦い。島津家久が講和に秀長を訪ね、日向方面の進軍は終了。
- 1587年(天正15年)8月、九州平定の功により従二位・権大納言に叙任。
- 1588年(天正16年)、紀伊・雑賀で代官・吉川平介が、秀長に売買を命じられた熊野の材木2万本の代金を着服する事件が起きた。吉川は処刑され、秀長自身も責任を問われた。
- 1589年(天正17年)1月1日、大坂城で諸大名と共に、秀吉に新年祝賀の太刀進上を行う。
- 1589年(天正17年)、北山一揆鎮圧。
- 1590年(天正18年)1月頃、病が悪化。小田原征伐には参加していない。
- 1590年(天正18年)10月、秀次が秀長の病気回復の祈願のため談山神社を訪れる。
- 1591年(天正19年)1月22日、秀長は大和郡山城で病死。享年52。
家督は養嗣子・甥(姉・智の息子、秀次の弟)の秀保が相続。
大和郡山城には金子56,000余枚、銀子は2間四方の部屋に満杯になる程の金銀が備蓄されていたといわれる。
秀長の家系は4年後、秀保の早世により断絶。
大阪市中央区の豊國神社には、兄・秀吉、甥・秀頼と共に祀られている。
豊臣秀長の官歴
羽柴(豊臣)秀長の官歴を簡単にまとめた。
- 1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦いの功により従五位下・美濃守。
- 1585年(天正13年)10月4日、従四位下参議兼右近衛権中将。「大和宰相」。
- 1586年(天正14年)10月4日、従三位・権中納言。
- 1587年(天正15年)8月8日、従二位・権大納言。徳川家康と同位同日に任官。「大和大納言」。
- 1588年(天正16年)4月15日、後陽成天皇が聚楽第へ行幸。天皇に諸大名が提出した起請文では、唯一豊臣姓を署名。
管理人が思う秀長
他の豊臣家の人々を狂気として捉えたかったので、タイトルであえて「豊臣家の良識」と言う言葉を使ってます。
秀吉を天下人にするために秀長自身、狂気の部分もあったのだろう。それを覆すくらいな人徳のある人物だったのであろう。管理人は、そう考える。
秀吉が大友宗麟に言っているように、秀長と千利休が両輪だったのだと思う。
秀長だけが秀吉に異を唱える事ができ、秀吉を制御できた。
二人が亡くなってからの豊臣政権は変わった。秀次事件・朝鮮出兵・・・。
秀吉は自らの手で、豊臣政権を破壊していく。
異を唱える人物がいなくなった瞬間に組織は崩壊していく。イエスマンしかいない組織は先が見えている。
それは現代でも同じだ。人間が組織を作っている以上、これからも変わらないだろう・・・。
大河ドラマ「真田丸」では千葉哲也が演じる
大河ドラマ「真田丸」では羽柴秀長を千葉哲也が演じる。
1996年放送「秀吉」で羽柴秀長を演じたのは高嶋政伸。
そう「真田丸」では北条氏政を演じていて、「怪優」なんて言われてます(笑)。
感慨深いですね~。
機会があれば「秀吉」での羽柴秀長を見てみてください。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
関連記事
関連記事リンクをまとめてみました。よろしかったらご利用ください。
まとめ
管理人は豊臣家の中で、羽柴秀長が一番好きだ。内政も軍事にも優れているイメージがある。
秀長の人生は、兄・秀吉とともに歩んだ人生と言ってもいい。秀長がいなかったら、秀吉は天下人になっていなかったであろう。
それくらい秀吉にとって秀長は大きな存在だ!
秀長は何を思い死んでいったのだろう。もしかしたら、中村の百姓で終わったほうが幸せだったのではないだろうか。
管理人は秀長のことを考えると、そんなことを思ってしまう・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。