天下人・豊臣秀吉の甥になる豊臣秀次。少年期は叔父・秀吉の立場に振り回され養子に出される。殺生関白の記述もあり、悪行はあったにせよ文化人・教養人であったとも言われる。秀吉により関白・豊臣家の家督を継いだ。これが悲劇の始まりであったのかもしれない。もし関白になっていなかったなら・・・。秀次の最期は壮絶の一言であろう。
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豊臣秀次・小早川秀秋ほど天下人・豊臣秀吉に翻弄された人物もいないだろう。今回は豊臣秀次に関する記事投稿をする。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
目次
豊臣秀次
豊臣秀次(とよとみのひでつぐ/とよとみひでつぐ)。羽柴秀次(はしばひでつぐ)。1568年(永禄11年)~1595年(文禄4年)7月15日。
父は三好一路(弥助)。母は瑞竜院日秀(とも)。尾張知多郡大高村で生まれる。名は治兵衛(じへえ)。
叔父は豊臣秀吉・秀長。叔母は朝日姫(旭姫・駿河御前)。
幼名は万丸(よろずまる)/治兵衛(じへえ)。通称は次兵衛尉、孫七郎、二兵衛。別名は三好孫七郎、吉継、信吉。改名は治兵衛・宮部吉継・三好信吉・羽柴信吉・羽柴秀次・豊臣秀次。
渾名は筑前おヰさま、殺生関白(しばしば畜生関白)、豊禅閤。号は道意。
兄弟は秀勝、秀保。義兄弟は秀勝(石松丸)、鶴松、秀頼、秀勝(於次丸)、秀俊、豪姫=秀家、秀康、八条宮智仁親王。
墓所は和歌山県伊都郡高野町の高野山光台院裏山(墓所)、京都市中京区木屋町三条下ルの慈舟山瑞泉寺(首塚)、京都市左京区岡崎東福ノ川町の善正寺(菩提寺)。
戒名は瑞泉寺殿高厳一峯道意(瑞泉寺)、善正寺殿高岸道意大居士(高野山)。
豊臣秀次の妻
豊臣秀次の妻をまとめる。
- 正室:池田恒興の娘・若御前(若政所)
- 継室(正室):菊亭晴季の娘・一の台
- 側室:四条隆昌(三位中将殿)・小上﨟(こじょうろう)於妻御前/おつまの方
- 側室:尾張国/美濃国日比野清実の娘・於和子の前/おあこの方
- 側室:尾張国星崎城主山口少雲の娘(前野長康の養女)・お辰の方
- 側室:北野松梅院(禅興またはその子禅永)の娘・阿左古の方/於佐子の前
- 側室:竹中重定(竹中與右衛門)の娘・於長(おちょう)の前
- 側室:摂津国小浜の僧毫摂寺善助の娘(持明院基孝の養女)・於亀の前/中納言局
- 側室:和泉国淡輪隆重の娘(淡輪重政の妹)・小督局/おここの方
- 側室:最上義光の次女(伊達政宗の従妹)・於伊萬の方
- 側室:摂津国伊丹兵庫頭正親の娘(伊丹忠親の孫)・於菊の前(法名:悦含院殿誓心大姉)
- 側室:大島親崇(三好一族。秀次の叔父)の娘・於園(おその)の前/お国の方(従妹)
- 側室:大原三河守/大草公重(大草流庖丁道家元)の娘・於藤の前
- 側室:斉藤吉兵衛/斉藤平兵衛の娘・於牧の前/おまさの方
- 側室:右衛門の後殿の娘・於松の前
- 側室:備前国本郷主膳の娘または女房の姪・小少将の前
- 側室:別所吉治の客人某の娘・於佐伊(おさい)の前
- 側室:美濃国武藤長門守の娘・おさなの方
- 側室:美濃国坪内三右衛門の娘・おなあの方
- 側室:尾張国住人坪内市右衛門の娘・於喝食(おかつしき)の前
- 側室:尾張国住人堀田二郎右衛門・於輿免(およめ)の前
- 側室:京都住人秋葉氏/秋庭氏の娘・於世智(おせち)の前/おあぜちの前(歌の名人)
- 側室:京衆古川主膳の娘・於愛の前
- 側室:上賀茂の岡本美濃の娘・おとらの方
- 側室:近江国鯰江才助/鯰江権之介(六角義郷の家臣の説あり)の娘・於古保(おこほ)の前
- 側室:近江国住人多羅尾彦七/多羅治郎左衛門の娘・於萬の前
- 側室:近江国住人高橋某の娘・おみやの方(一の台の娘とは別人)
- 側室:近江衆某の娘・おきみの方
- 側室:越前衆(越前守)某の娘・しょうしょう(せうせう)の方
- 側室:最上衆某の娘・おこちやの方
- 側室:出自不明・於阿子の前
- 側室:出自不明・於杉の前
- 側室:京都一条通の捨て子・於竹の前
- 側室:木村重茲が越前国より呼んだ女郎・於仮名の前
豊臣秀次の子
豊臣秀次の子をまとめる。
- 連れ子(側室とも言われる):於宮、父は(三条顕実(落胤説もある)、母は一の台)
- 長男:仙千代丸、母は和子の前/おあこの方
- 次男:百丸、母はお辰の方
- 三男:十丸、母は阿左古の方/於佐子の前
- 四男:土丸(十一丸)、母は於長(おちょう)の前
- 娘:露月院誓槿大童女(秀頼の許嫁)、母は於亀の前/中納言局
- 娘:お菊、母は小督局/おここの方
生母不詳は、
- 娘:妙亀童女
- 子:甘丸
- 子:水丸
- 女梅(小路家室)
- 隆清院(真田信繁の側室)
である。
ほかに落胤として松花堂昭乗(秀次の子息との説あり)。
宮部継潤の養子(宮部吉継)
1568年(永禄11年)、秀吉の同母姉・とも(瑞竜院日秀)と弥助(のちの三好吉房)夫婦の長男として尾張知多郡大高村で生まれた。名は治兵衛(じへえ)。
- 1572年(元亀3年)、秀吉が宮部城主・宮部継潤の調略に成功。人質として当時4歳の甥の治兵衛を送る。宮部継潤の養子となる。
- 1573年(天正元年)9月1日、小谷城陥落により浅井氏は滅亡(小谷城の戦い)。織田信長が秀吉に小谷城を与える。宮部継潤は秀吉の与力になる。
- 1574年(天正2年)、秀吉は琵琶湖沿岸に長浜城を築城。
治兵衛は名目上、継潤の養子となり通称を次兵衛尉、諱を吉継と改めて、「宮部吉継」と名乗っている。
宮部継潤は宮部家家臣・田中久兵衛を傅役にした。久兵衛は後に吉政と改名し、秀次には最も長く側近として仕えている。
継潤が与力となってからは、養子縁組が解消されたと思われる。羽柴姓か木下姓に戻っていたようであるが、6歳の秀次が何と名乗っていたかは不明のようである。
秀次が秀吉に翻弄される最初の出来事が、宮部継潤との養子縁組だ。
三好康長の養子(三好孫七郎(三好信吉))
1575年(天正3年)、畿内で松永久秀や三好三人衆が織田信長に降った。
河内高屋城で籠城していた三好康長は織田家家臣・松井友閑を介して、信長が欲しがっていた名器「三日月」を献上して大変喜ばれ家臣として厚遇された。
- 1580年(天正8年)、長宗我部元親が阿波に侵攻。三好康長の甥・十河一存や息子・康俊らの城を攻めた。康長は秀吉に接近して支援を得る。
- 1581年(天正9年)3月、信長は阿波勢と長宗我部氏の調停と称して、元親に阿波の占領地半分を返還するように命じる。元親は従わず、信長と対立。
- 1582年(天正10年)、信長の三男・神戸信孝を総大将として四国征伐の予定であった。
- 1582年(天正10年)6月2日、明智光秀の謀反により織田信長が本能寺の変にて自害。
信長は最初、土佐を統一した長宗我部元親の所領を安堵し、「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」と書いた朱印状を渡している。
元親が阿波に侵攻すると情勢は変化した。長宗我部氏との交渉は織田家重臣・明智光秀の役目だった。光秀の考えは撤回されるようになった。このへんが本能寺の変への引き金とする説もある。
信長の四国征伐が予定されていた頃、信長の三男・神戸信孝を三好康長の養子とする手筈だった。
本能寺の変により、全てが中止となり、三好康長は連携を強めるために秀吉の甥を養子とした。養子となった時期については諸説あり。
三好の養子となった吉継(秀次)は、通称を孫七郎と改め、諱を信吉として「三好信吉」と名乗る。
本能寺の変後、三好康長は出奔。その後の消息は不明。一説には出家して妙心寺に入ったとも言われる。実子の康俊もこの頃に亡くなっている。
1583年(天正11年)頃、信吉が残った三好家の家臣団を率いる立場となる。河内・北山2万石の大名となった。
父・弥助は三好武蔵守吉房と名乗りを改めた。
羽柴信吉(孫七郎)
羽柴信吉(孫七郎)と名乗るまでを簡単にまとめる。
- 1582年(天正10年)6月、山崎の戦いの直前、池田恒興の娘と信吉との婚約が約束された。
- 1582年(天正10年)6月27日、清洲会議。関東で足止めを食った滝川一益の代わりに恒興が宿老の1人として出席。この縁組は秀吉の多数派工作の一助となっている。
- 1583年(天正11年)、滝川一益が挙兵。信吉は中村一氏や近江勢2万を率いる大将として出陣。滝川儀太夫の籠る嶺城を攻略。
- 1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦い。第六陣を率いて参加。
- 1584年(天正12年)春月頃、羽柴姓に復帰。羽柴信吉(孫七郎)と名乗りを改めた。
羽柴姓に復帰した頃、三好康長のもとを去ったと思われる。この時に三好家臣団を引き抜き、特に若江八人衆と言う。
小牧・長久手の戦い
1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いでは失態を演じた。
羽黒の陣で敗北した岳父・池田恒興と義兄・森長可が三河に攻め入るという「中入り」策を秀吉に強く提案。信吉は別働隊の総大将になりたいと志願して認めらる。
4月9日、白山林で榊原康政・大須賀康高らに奇襲されて、壊滅的な大敗を喫した。
軍目付として同行していた木下助左衛門と木下勘解由が信吉を守ろうとして討死。信吉は堀秀政隊の救援で何とか脱出。秀吉から激しく叱責される。
結局、岳父・池田恒興と義兄・森長可ら多くの武将が討死した。
秀吉の怒りようは尋常ではなかったと言われる。
山鹿素行の「武家事紀」によれば、自分の甥としての覚悟と分別を持つように求めて、それに応えるならば何れの国でも知行を認めるが、今の様に無分別ならば「一門の恥であるから手討ちにする」とまで述べている。
これはのちの「豊臣秀次切腹事件」の布石となったとの説もある。
羽柴秀次
羽柴秀次を名乗るまでを簡単にまとめる。
- 1585年(天正13年)、秀吉による紀伊雑賀征伐。信吉(秀次)は秀長と共に副将を任される。
- 1585年(天正13年)3月21日、千石堀城の戦い。首は一つも取らずに打ち捨て、一揆勢を皆殺しにして城を落した。太田城攻囲にも参加。
- 1585年(天正13年)6月、四国征伐。秀吉が病気のため秀長が総大将、信吉は副将。明石より3万を率いて出陣。
- 1585年(天正13年)7月頃、秀吉が関白就任。偏諱を受けて秀次と改名し、羽柴秀次を名乗った。
四国征伐では黒田孝高(官兵衛)、宇喜多秀家ら備前・播磨勢と合流した後に、比江山親興の籠る岩倉城を攻めて落城させた。
近江宰相~奥州仕置
近江宰相から奥州仕置までを簡単にまとめる。
- 1585年(天正13年)8月6日、長宗我部元親の降伏により四国平定。評定によって大掛かりな国替え・加増が行われた。
- 1585年(天正13年)10月頃、従四位下、右近衛権少将に叙任。
- 1586年(天正14年)春頃、右近衛権中将。
- 1586年(天正14年)11月25日、豊臣の本姓を下賜。同時に参議に補任。
- 1587年(天正15年)、九州征伐。前田利家を輔佐として、秀吉の名代で京都留守居。秀次は出陣していない。
- 1587年(天正15年)11月22日、従三位に昇叙し、権中納言に転任。
四国平定後の国替え・加増では、秀次の本人分としては20万石、宿老(中村一氏・山内一豊・堀尾吉晴)たちへの御年寄り衆分としては23万石が与えられ、併せて43万石の大名となった。
所在地は東西交流の要となる近江の蒲生郡・甲賀郡・野洲郡・坂田郡・浅井郡の5郡で、秀次は蒲生郡の現在の近江八幡市に居城・八幡山城を築いた。
八幡山城は豊臣秀次事件で破却を命じられたために現存しない。
秀次は領内の統治では善政を布いたと言われ、近江八幡には「水争い裁きの像」などの逸話がある。
宿老・田中吉政の功績が大きいともいわれるが、悪政を敷いた代官を自ら成敗したり、名代を任せた父・三好吉房について「頼りない」と評価するなど主体性を発揮した面も伝わっている。
- 1588年(天正16年)4月14日、後陽成天皇の聚楽第行幸。忠誠を誓う署判の序列では、徳川家康(権大納言)、織田信雄(内大臣)、秀長(権大納言)、秀次、宇喜多秀家、前田利家の順で署名された。
- 1588年(天正16年)4月19日、従二位に昇叙。権中納言如元。清華家の家格に列す。
- 1590年(天正18年)、小田原征伐。秀長が病気のため、秀次が副将。大将として山中城陥落。家老・一柳直末(市助)を失う。
- 1590年(天正18年)7月5日、小田原城包囲では、秀次軍は荻窪口に陣取った。後北条氏の降伏まで在陣。
- 1590年(天正18年)7月18日、奥州平定に出発。
- 1590年(天正18年)8月6日、白河に到着。
- 1590年(天正18年)8月9日、黒川に到着。
会津郡の検地の監督を秀次は命じられていたが、葛西大崎一揆が起こった。
蒲生氏郷により一揆は伊達政宗が扇動したものであると秀吉に報告。秀次と家康に出陣が命じられた。しかし誤報として処理されて、一旦取り消しとなった。
- 1591年(天正19年)1月22日、豊臣秀長が死去。
- 1591年(天正19年)2月、九戸政実の乱。秀次を総大将とし、伊達政宗、蒲生氏郷、佐竹義宣・宇都宮国綱、上杉景勝、徳川家康が出陣。
- 1591年(天正19年)8月5日、秀吉の嫡男・鶴松が死去。
小田原攻めの論功行賞では、織田信雄が東海道五カ国への移封を拒否して改易された。
信雄領であった尾張・伊勢北部5郡などが秀次に与えられ、旧領と合わせて100万石の大大名となった。
関白・豊臣秀次
1591年(天正19年)11月、秀次は秀吉の養嗣子となったとされる。養子となった時期については諸説ある。
関白職の世襲のために秀次の官位は、急遽引き上げられた。
- 1591年(天正19年)11月28日、権大納言に転任。
- 1591年(天正19年)12月4日、内大臣に転任。
- 1591年(天正19年)12月28日、関白宣下。内覧宣下。豊臣氏長者宣下。内大臣如元。
「本願寺文書」「南部晋氏所蔵文書」によれば、秀吉は5ヶ条の訓戒状を秀次に出した。
前4条は天下人としての一般的な心得。
最後の条で
「茶の湯、鷹野の鷹、女狂いに好き候事、秀吉まねあるまじき事、ただし、茶の湯は慰みにて候条、さいさい茶の湯をいたし、人を呼び候事はくるしからず候、又鷹はとりたか、うつらたか、あいあいにしかるべく候、使い女の事は屋敷の内に置き、五人なりとも十人なりともくるしからず候、外にて猥れかましく女狂い、鷹野の鷹、茶の湯にて秀吉ごとくにいたらぬもののかた一切まかり出候儀、無用たるべき事」
と個人的な行いについて特に「自分のように振る舞うな」と戒めて神明に誓わせた。
秀次は政庁である聚楽第を主な住居と政務を執った。
しかし二元政治は否めず、秀吉が定めた「御法度」「御置目」に従うようにされており、太閤・秀吉が依然として統括的立場を保持した。
- 1592年(文禄元年)1月29日、左大臣に転任。関白・内覧・豊臣氏長者如元。
- 1592年(文禄元年)2月、2回目の後陽成天皇の聚楽第行幸。
- 1592年(文禄元年)5月17日、従一位。
元号が文禄に改元されたのは、秀次の関白世襲、武家関白制の統治権の移譲に関係した改元と考えられる。
1592年(文禄元年)8月、大政所の葬儀。喪主は秀吉であったが、葬儀を取り仕切ったのは秀次であった。
秀頼誕生
秀次継承後、肥前から戻った淀殿の懐妊が判明。
- 1593年(文禄2年)8月3日、大坂城二の丸で淀殿が秀頼(拾)を産む。
- 1593年(文禄2年)8月15日、秀吉が肥前・名護屋城を出発。
- 1593年(文禄2年)8月25日、秀吉が大坂に到着。
秀吉は大変な喜びようであったと伝わる。
「秀吉と秀次」「淀殿と秀次」には確執があったのだろうか?
山科言経の「言経卿記」によれば、日本を5つに分け、その4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲ると申し渡したと言われている。
また秀次は熱海に湯治に行ったが、旅先より淀殿に対して見舞状を出すなど良好な態度であったと言われている。
秀次は北政所とも良好な関係を築いていたことが伝わる。では何故、「豊臣秀次事件」に繋がるのか?・・・
豊臣秀次事件
1595年(文禄4年)6月末、関白・豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がる。
結局、1595年(文禄4年)7月15日、豊臣秀次は雀部重政の介錯により切腹。享年28。
近年「秀次は秀吉の命令ではなく、自ら切腹した」なる新説が提唱された。
粛清の理由は諸説あり、ハッキリとしたことはわかっていない。
豊臣秀次事件についての記事があるので参考にしてほしい。
官位
豊臣秀次の官位をまとめる。
- 1585年(天正13年)10月、従四位下・右近衛権少将に叙任。
- 1586年(天正14年)春頃(4月前後)、右近衛権中将に転任。
- 1586年(天正14年)11月25日、参議に補任。右近衛権中将如元。
- 1587年(天正15年)11月22日、従三位に昇叙し、権中納言に転任。新中納言と称される。のちは近江中納言、江州中納言とも称される。
- 1588年(天正16年)4月19日、従二位に昇叙。権中納言如元。清華家の家格に列す。
- 1591年(天正19年)2月11日、正二位に昇叙。
- 1591年(天正19年)11月28日、権大納言に転任。
- 1591年(天正19年)12月4日、内大臣に転任。
- 1591年(天正19年)12月28日、関白宣下。内覧宣下。豊臣氏長者宣下。内大臣如元。
- 1592年(文禄元年)1月29日、左大臣に転任。関白・内覧・豊臣氏長者如元。
- 1592年(文禄元年)5月17日、従一位。
- 1595年(文禄4年)7月8日、出家。
- 1595年(文禄4年)7月15日、豊臣秀次没す。
殺生関白
太田牛一の「大かうさまくんきのうち」に次のような記述がある。
さるほどに、院の御所崩御と申すに、鹿狩りを御沙汰候。法儀も政道も正しからざるあひだ、天下の政務を知ること、ほどあるべからずと、京わらんべ笑つて、落書にていわく、 院の御所にたむけのための狩りなればこれをせつせう関白といふと、かように書きつけ、立てをきさぶらひし。
正親町上皇崩御の諒闇中に狩りをしたことが不道徳であるとして落首されたという話を元にして「せつせう関白」、つまり摂政と殺生をかけて、殺生関白と呼ばれるようになったと言うが、「太閤さま軍記のうち」におけるこの記述が唯一の出典となる。
秀次が「殺生関白」であったかは疑わしいところがある。作為的なところもあるんじゃないかと思っている。
秀次は多くの公家とも交流があったことから、教養人・文化人であったとも言われる。養父・三好康長が文化人であったことからも当然と言える。養父・三好康長から茶の湯などの手ほどきを受けていたはずである。
自らが切腹する前に、小姓たちを介錯していることからも剣の腕前も相当のものだったことがわかる。つまり豊臣秀次は文武に長けた人物であったのではないか。
宣教師ルイス・フロイスは「この若者(孫七郎殿)は、伯父(秀吉)とは全く異なって」と評している。悪行はあったとするものの、暴君は秀次ではなくて秀吉そのひとであったという立場をとっている。
大河ドラマ「真田丸」では新納慎也が演じる
大河ドラマ「真田丸」では豊臣秀次を新納慎也(にいろしんや)が演じる。
真田丸では、きり(長澤まさみ)との絡みが多く感じる。
豊臣秀次の最期が、どのように描かれるか楽しみデス。
まったく関係ないけど新納さんって、昔ジャニーズ事務所にいた中村繁之に似てると思う(笑)。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
ドラマなどでは豊臣秀次は有能な人物として描かれることが少ない。果たして秀次は、そんな人物だったのだろうか?
大きな失敗は小牧・長久手の戦いしかない。
われわれ現代人は、「殺生関白」という表現を重視しすぎているのではないだろうか・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。