第27話「不信」は豊臣秀次事件前編ともいうべき放送回だろうか。いちおう秀吉も秀次に気を使っているのが描かれている。しかしことごとく空回りし、かえって秀次を不安にさせてしまった。そんな中で源三郎信幸・源次郎信繁は官位を授かる。ここでも兄弟間で不信が生まれている。不信感が頂点に達した秀次は聚楽第から消えてしまった・・・。
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タイトル「不信」とは「秀次・秀吉」「源三郎信幸・源次郎信繁」「きり・源次郎信繁」のことだろうか・・・。
歴史好きの管理人が大河ドラマ「真田丸」レビューを好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
目次
大河ドラマ「真田丸」第27話「不信」あらすじ
関白・豊臣秀次は叔父である太閤・豊臣秀吉のご機嫌ばかりを伺っていた。秀吉は、秀次に日本を5つに分けて、そのうちの1つ九州を拾(秀頼)のものとすることを提案する。秀次の秀吉に対する不信感は募るばかりであった。
熱海に湯治に来ていた秀次のもとに、拾(秀頼)と秀次の娘との婚約話の知らせが届く。秀次は大事なことを勝手に決める秀吉を、信用できなくなる。心配した豊臣秀俊(のちの小早川秀秋)が秀吉に「能」を披露することを提案する。
能が得意な宇喜多秀家の指導のもと、秀次・秀俊・秀保が稽古に励む。そんな時、秀俊が小早川隆景の養子になることが決まる。秀次は「やっかいばらい」と言い、秀吉に恐れおののく。
吉野・吉水院での花見で、秀次は能を披露する。急病の秀保の代わりは源次郎信繁が務める。最初は機嫌が良かった秀吉の表情が曇りだす。関白ならもっとやることがあるというのだ。
落ち込む孫七郎(秀次)を寧(北政所)が慰める。秀吉は源次郎信繁に官位を授けると言い出すが、兄・源三郎信幸が無位無官のため断る。断ると思っていなかった秀吉は激怒する。
官位の件は、関白の仕事であると秀次は秀吉にキッパリ申し出る。頼もしく思った秀吉は、この件は秀次に任せることとなった。
真田安房守は叙位のお礼に秀吉の元を尋ねる。そこで源三郎信幸は、本当は源次郎信繁だけが官位を授かるはずだったことを知る。源三郎信幸も弟・源次郎信繁に不信感を抱く。そして安房守は伏見城の普請をすることになった。
秀保の病状は回復することなく死去。秀吉は秀保の死を隠そうとした。秀吉の仕打ちに秀次は愕然とした。たまたま伏見城の絵図面を見てしまった。絵図面は政務がとれるようになっていた。
秀吉は自分(秀次)が必要でないと思っていると秀次は思い込んでしまった。秀吉が良かれとやったことは秀次を追い詰めた。次は自分の番だと。
不信感が頂点に達した秀次はすべてを投げ出し、聚楽第から消えてしまった・・・。
文化人・豊臣秀次
秀次(新納慎也)が北政所(鈴木京香)との会話で「源氏物語 宇治十帖」が手に入ったからと言っている。
豊臣秀次はかなりの文化・教養人であったと言われる。秀次が「三好信吉」と名乗り、三好家の養子であった頃、義父・三好康長から茶の湯などの手ほどきを受けている。
そして秀次は多くの公家とも交流している。
これも北政所(鈴木京香)との会話からだが、秀次は「戦もしくじり」と言っている。「しくじり」とは小牧・長久手の戦いのことだと思うが、大きな失敗はこれしかないと記憶している。
豊臣秀次に関しては、「殺生関白」との記述もあるが、ダメな武将だったのではなく、全く逆の文武に秀でた名将だったのではないかと管理人は思っている。
吉野の花見
1994年(文禄3年)春、太閤・豊臣秀吉は吉野・吉水院(吉水神社)で「吉野の大花見の会」を開催している。
5,000人の家来を連れて、5日間開催されている。
能の会・歌会・御茶会・仮装行列などが催され、盛大な宴であったと言われる。
おこうと稲
源三郎信幸(大泉洋)は叙位のため、上洛することとなった。
源三郎信幸(大泉洋)は正室・稲(吉田羊)にも一緒に来るように伝えるが、稲(吉田羊)は納得しない。そればかりか浜松に帰ると言い出す。
おこう(長野里美)が稲(吉田羊)に「辛いのは自分ばかりじゃない」といったところでシーンは終わるのだが。稲(吉田羊)はわかったのだろうか?
おこう(長野里美)も辛い。
そして二人の知らないところで源三郎信幸(大泉洋)は悩み葛藤している・・・。
従五位下
1994年(文禄3年)11月2日、真田信之が従五位下・伊豆守、真田信繁が従五位下・左衛門佐を叙任。同時に「豊臣姓」を下賜。
二人とも「豊臣朝臣信之」「豊臣朝臣信繁」で叙任。豊臣政権下では、よほどのことがない限り、官位と豊臣姓はセットである。
史実では、岳父・大谷吉継とその母・東殿の意向が反映されたとされる。
近年の研究では、信繁は秀吉の馬廻衆であり19,000石の直臣であったことがわかっている。
源義経
源次郎信繁(堺雅人)が義経にちなんで「左衛門佐」になったと言っていたので源義経の官位について少し書く。
- 1184年(元暦元年)8月6日、左衛門少尉・検非違使に任官。
- 1184年(元暦元年)9月3日、従五位下に叙位。左衛門少尉・検非違使留任。
- 1185年(文治元年)8月16日、伊予守任官。検非違使・左衛門少尉を兼任。
- 1185年(文治元年)11月3日、都を落ちる。
- 1185年(文治元年)11月7日、解官。
義経の兄・源頼朝は勝手な任官を禁じていた。しかし義経は後白河法皇より任官される。
以後、頼朝・義経兄弟は不仲になり、義経は頼朝に討たれることになる。
その一因が、義経任官であると言われる。
大和中納言・豊臣秀保
ドラマの中で秀吉(小日向文世)は秀保には2つの罪があると言っている。
- この年に秀保が死んだこと。
- 豊臣一門として拾(秀頼)を助けることができなくなったこと。
そう拾(秀頼)は、鶴松が亡くなった年齢に達していた。
1595年(文禄4年)4月16日、豊臣秀保が急死。享年17。死後、大納言が遺贈。
秀保の正室はおきく(豊臣秀長の娘)。つまり義父は大和大納言・豊臣秀長。
秀保は義父の大和大納言にちなんで「大和中納言」と呼ばれる。
死因は諸説ある。
秀保の死後、子がなかったため大和大納言家は断絶。
大河ドラマ「真田丸」第27話「不信」レビュー
真田信尹(栗原英雄)が徳川家を離れることとなった。
史実での信尹は、蒲生氏郷に仕えている。1598年(慶長3年)蒲生騒動が起きたことにより、ふたたび徳川家康に甲斐で4000石を与えられて帰参。
きり(長澤まさみ)と秀次(新納慎也)。きり(長澤まさみ)は秀次(新納慎也)の側室にはなっていない。秀次の娘・たか(岸井ゆきの)にも聞かれているが、正式な返答はしていない。
たか(岸井ゆきの)は父・秀次(新納慎也)は波があり側室はやめたほうがいいとまで言っている。
きり(長澤まさみ)の態度はじれったいが、とにかく側室にはなっていない。
政務まで投げ出し、聚楽第を出た秀次(新納慎也)は「きり(長澤まさみ)」に会いに来たのだろうか・・・。
第27話「不信」は、そのシーンで終了する。
次回予告
次回予告では呂宋助左衛門と徳川秀忠が登場している。
呂宋助左衛門は松本幸四郎が演じている。
キャスティングは「黄金の日日」と同じ、松本幸四郎(当時は市川染五郎)だ。
あの「助左」が帰ってくる。楽しみでしょうがない!
徳川秀忠を演じるのは星野源。
「真田丸」第27話「不信」視聴率
堺雅人主演の大河ドラマ「真田丸」第27話「不信」が2016年7年10日放映された。平均視聴率は15.1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。
いや~、いくら参議院選挙の放送により、時間が変更になったにせよダウンしすぎだと思います。
内容が良かっただけに残念です。
「早丸」と呼ばれるBS視聴率は5.0%で好調キープ。
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まとめ
真田丸は豊臣秀次事件に関しては、秀次が切腹してしまった説を採用するようだ。
つまり秀吉は切腹を命じてないということだ。
これは興味深い。第28話が楽しみである・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。