「真田丸」第32話「応酬」感想。五大老・五奉行の合議制、早くも?

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1598年(慶長3年)8月18日、巨星墜つ。太閤・豊臣秀吉が死去。遺言どおり「五大老・五奉行」の合議制による政治は始まった。しかし徳川家康が足並みを見だす。多数派工作の宴を開くは、禁止されていた大名同士の縁組を結ぶ。早くも「五大老・五奉行」の合議制は暗礁に乗り上げる・・・。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

管理人は前回で「秀吉ロス」になりましたが、みなさんはどうでしょうか?

歴史好きの管理人が大河ドラマ「真田丸」レビューを好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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大河ドラマ「真田丸」第32話「応酬」あらすじ

太閤・豊臣秀吉は死んだ。遺言どおり十人による合議制の政治が始まった。いわゆる「五大老・五奉行」だ。

秀吉の死は隠された。上記十名とごく内々の者だけが知るだけとなる。治部殿の判断により、遺体はカメに入れられ、塩漬けにされて伏見城の蔵に安置された。

治部殿より、これからのことを尋ねられた源次郎信繁は、治部殿の元で働くことを望む。秀吉より「頼む、佐吉を・・・」と託された信繁は、そのとおりにした。これには治部殿も嬉しかったはずだ・・・。

治部殿と信繁は、前田利家の元を訪れる。利家は唯一人、徳川家康に対抗できる存在であるが、病に臥せっていた。

命を狙われた徳川家康は、嫡子・徳川秀忠を江戸に返している。「なにゆえ」と聞き返した秀忠は、父・家康に怒られた。安房守の言葉を借りるなら、「織田家の二の舞い」にはならないためである。

連日のように、徳川屋敷では本多正信により宴が開催されている。伏見在住の大名たちが参加して盛況だ。初登場の長宗我部盛親も参加していた。

治部殿も負けじと宴を開催するが、出席者がほとんどいない。小早川秀秋・宇喜多秀家・片桐且元・長束正家。そこへ細川忠興が参加した。あまりの出席者の少なさに、忠興は出席したことを後悔した。

家康の多数派工作が始まる。秀吉の遺言を無視して、大名たちと縁組を結ぶ。もう家康は天下への野望を隠していない・・・。

年が明けて1599年(慶長4年)正月、伏見城より前田利家の後見で秀頼が大坂城に入城した。利家は病をおして出席。

刑部殿は、家康と治部殿の対決の構図になることを恐れていた。評定の前に上杉景勝に書状をしたため、家康を除いた老衆(おとなしゅう)の協力も取り付けた。

そして家康を糾弾する評定が始まった。利家の代理で前田利長が参加している。

評定は、終始、家康ペースだ。義を重んじる景勝さえも家康の迫力におされた。ついに家康を糾弾することは、できなかった。

治部殿は秀吉の霊前で家康打倒を誓う・・・。

「伏見のもっとも長い一日が始まろうとしている・・・」

徳川秀忠。関ヶ原の戦いに遅参するも意外に名君?真田丸では星野源
徳川秀忠は地味な印象を与えてしまう。関ヶ原の戦いに遅れたことが目立つが、調べていくと秀忠のイメージが変わった。遅参に関しても諸説があり、一概に秀忠だけを責めることはできない。それよりも征夷大将軍への就任、以降に行ったことは徳川政権が長期的に続いたことを考えると果たした役割は大きい。
小早川秀秋。秀吉の養子、金吾中納言~関ヶ原の戦いで西軍を裏切る
小早川秀秋といえば関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったということになるが・・・。通称「金吾中納言」も有名である。飲酒についてはかなり好きだったようであるというか、飲まなければプレッシャーがありやってられなかったのだろうか。気持ちはわかる。天下人が叔父というのはかなりのもんだと思う。そういう意味では同情してしまう・・・。
片桐且元。賤ヶ岳の七本槍と称され、豊臣家家老。のち徳川家に出奔
片桐且元といえば賤ヶ岳の七本槍であり、豊臣政権の奉行職を歴任した。豊臣家家老にまでなっている。片桐氏は信濃源氏の名族であり、官位は従五位下・東市正(ひがしのいちのかみ)。豊臣姓まで下賜されている。同じ豊臣恩顧の加藤清正・福島正則の様なイメージはない。通称は助佐・助作。
長宗我部盛親。関ヶ原では戦闘に参加できず、寺子屋で生計を立てる
管理人が思う長宗我部盛親は少し可哀想な人物である。特に関ヶ原の戦いなのだが、結果だけ見ると成り行き上、西軍として参加している。本戦でも「宰相殿の空弁当」でも有名な毛利秀元、東軍に内応した吉川広家のせいで動くに動けなかった。戦闘自体に参加できていない。そんな長宗我部盛親の最期は立派であったと伝わる。
細川忠興。本能寺の変後は正室・玉子を幽閉、茶道・三斎流の開祖
「茶道四祖伝書」では、細川忠興は「天下一気の短い人物」と書かれた。父は細川藤孝(幽斎)。正室は明智玉子(洗礼名:ガラシャ)。父・幽斎(藤孝)と同じ教養人で、和歌や能楽、絵画にも通じた文化人であった。著書には「細川三斎茶書」がある。「利休七哲」の一人に数えられ、茶道の流派・三斎流の開祖。

五大老・五奉行

秀吉の生前は、良くも悪くも「鶴の一声」で決まっていた。

秀頼が成人するまでは、合議制で政治を行うことが決まっていた。

やはり強く徳川家康を意識していたはずだ。

大老は奉行を監視し、奉行は大老を監視する。「五大老・五奉行」の十人による合議制の政治。

秀頼が成人して、関白になるまでは「五大老・五奉行」でいくはずだった。

そして機能するはずだった・・・。

五大老・五奉行。豊臣政権での合議制、対徳川家康の意味あいが強い
1595年(文禄4年)に起きた豊臣秀次事件は豊臣政権に政治危機をもたらした。秀吉の嫡男・秀頼も幼少である。そこで秀吉は、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図る。秀吉起死回生の策「五大老・五奉行」制度は上手くいくはずだった・・・。
豊臣秀頼。母は淀殿、豊臣家の公達。本当に秀吉の実子なのか?
秀頼が誕生したことにより、多くの人の運命が狂った。別に秀頼のせいではないが、豊臣秀次は典型的な人物であろう。秀次死後、秀吉の期待を一心に背負い秀頼は成長する。豊臣家のプリンス・公達として・・・。豊臣政権の永続を願い崩壊が始まってることに気づかず秀吉は死んだ。そして豊臣政権は永続しなかった・・・。
前田利長。母・芳春院(まつ)を人質に差し出し、慶長危機を乗り切る
前田利長。父は前田利家。母・芳春院(まつ)。正室・永姫は織田信長の娘。羽柴肥前守、越中少将と呼ばれ、追贈された官位は正二位・権大納言。徳川家康暗殺疑惑事件では、徳川家康に嫌疑をかけられ、あわや「加賀征伐」の手前であった。これら一連は「慶長の危機」と呼ばれる。

矢沢三十郎頼康(頼幸)

久しぶりに三十郎(迫田孝也)が登場。

「源次郎様あるところに、三十郎ありです」という言葉通り、三十郎(迫田孝也)は源次郎(堺雅人)の側近くがいいらしい。

源三郎信幸(大泉洋)には「左衛門佐様」と呼ぶように注意されていたが、三十郎(迫田孝也)はピンときていない(笑)。

矢沢三十郎頼康(頼幸)。父は矢沢薩摩守頼綱、第一次上田合戦で奮闘
矢沢三十郎頼康(頼幸)。父は猛将・矢沢薩摩守頼綱。ドラマでは真田家の良きサポート役として描かれている。真田源次郎信繁が上杉景勝の人質に出される際には警護役として同行している。第一次上田合戦では徳川家臣・大久保忠世を震え上がらせたエピソードも残っている。真田家筆頭家老であり、まさに矢沢家あっての真田家である。
真田信繁の官職・左衛門佐により衛門府を調べる。「金吾」の由来も
真田信繁(幸村)の官職・左衛門佐により衛門府を調べてみました。歴代任官者には小早川隆景、金吾中納言で名高い小早川秀秋は左衛門督、「左衛門尉」任官者には源義経・楠木正成らがいる。「金吾」は衛門府の唐名である。
真田信幸(信之)と本多平八郎忠勝の娘、正室小松姫
弟真田信繁(幸村)と違って地味な印象がある真田信幸(信之)。しかし関ヶ原の戦い、大坂の陣を乗り越え真田家を残すのは真田信幸(信之)である。そして信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。その血筋は現在まで残る。信幸(信之)の正室は本多平八郎忠勝の娘、小松姫である。この二人に焦点をあてて記事投稿をします。

加藤清正という男

加藤清正(新井浩文)が朝鮮出兵より帰国。

ともに豊臣家を支えることを誓った。清正(新井浩文)は治部殿(山本耕史)に、言いたいことがたくさんあるが我慢している。

治部殿(山本耕史)「お主は案外城作りも上手いし、領内の仕置も確かだ。ただの戦バカではない。」

一言余計だが、清正を的確に捉えている言葉。そのとおりだと思う。

帰国した者たちのため、宴が開催された。中座しようとする治部殿(山本耕史)に清正(新井浩文)が突っかかる。

そして清正(新井浩文)は、徳川家康(内野聖陽)の懐柔策に乗ってしまう。家康の娘を嫁に迎えるらしい。

これは清正の継室だと思う。名は清浄院。水野忠重の娘で、徳川家康の養女である。

これを知った治部殿(山本耕史)は激怒。

「あれは考えていた以上の馬鹿だ」

加藤清正。賤ヶ岳の七本槍だが、従五位下主計頭に込めた秀吉の思い
熊本城築城、賤ヶ岳の七本槍、虎退治、地震加藤などで有名な加藤清正。エピソードが多い武将だ。意外だが、文禄・慶長の役まで大軍を指揮していない。当初から石田三成と対立していたわけではなく、ただの「猪武者」でもないようだ。勇猛果敢な豪将のイメージがあるが最初の官位は従五位下・主計頭である。そこに込めた秀吉の思いとは・・・。

備前中納言

評定で家康(内野聖陽)が「備前中納言」と言っていたので、少し書く。

「備前中納言」こと宇喜多秀家。秀家は宇喜多家の当主ではあるが、秀吉の養子でもあります。

ドラマでは「松岡修造」ばりにアツい男に描かれている。

治部殿(山本耕史)主催の宴でも、評定でもアツかった。とにかくアツい(笑)。

宇喜多秀家についても記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

宇喜多秀家。備前宰相、関ヶ原の戦いでは西軍の副大将。八丈島に流刑
備前宰相と呼ばれた宇喜多秀家。父は梟雄と称された宇喜多直家。母・円融院は秀吉の側室的存在であったとの説があります。秀吉の寵愛を受けて猶子となった。秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗る。正室は秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫。宇喜多騒動なども解説。

大河ドラマ「真田丸」第32話「応酬」レビュー

第32話「応酬」で、思いついたことをつらつらと・・・。

出浦ロス

「出浦ロス」を心配していた人には朗報でしょう。

出浦殿(寺島進)は死んでません。火傷がひどく重症だが、佐助(藤井隆)とともに有馬で養生しています。

出浦昌相(盛清)。森長可の信濃脱出を助ける甲州透破(忍者)の統率者
「真田丸」では俳優・寺島進が演じてます。寺島進がカッコいいのか、出浦昌相がカッコいいのか・・・。清和源氏信濃村上氏の一族なんですね。甲州透破(忍者)の統率者。「真田丸」でもまさに「素っ破」。織田家が信濃から撤退した後は、真田家に仕えます。子・出浦幸吉は、松代藩の家老になります。

「きり」とキリシタン

きり(長澤まさみ)だが、まだキリシタンには興味があるようだ。

細川ガラシャ(橋本マナミ)にキリシタンになりたいと打ち明けている。

これからの展開はわからないが、キリシタンになるのだろうか?

やはり「きり」と言う名前は、キリシタンからなのか??

今後も注目していきたい!

真田信繁(幸村)の側室、高梨内記の娘。真田丸では「きり」
真田信繁(幸村)の側室で高梨内記の娘。真田丸では「きり」という名前で長澤まさみが演じていると言ったほうがわかるでしょう。信繁(幸村)との間には、次女・於市、三女・阿梅(片倉重長後室)をもうけています。九度山にも同行している。阿梅は片倉小十郎重長の後室になり、信繁(幸村)の次男・大八も片倉家に養育されたといわれています。
細川ガラシャ。父は明智光秀、細川忠興の正室。最期は壮絶
細川ガラシャはキリスト教信徒(キリシタン)として有名。父は明智光秀、細川忠興の正室。本能寺の変後、しばらく幽閉されていたことも有名である。しかし細川ガラシャといえば、やはり壮絶な最期ではないだろうか。美談として語られることが多く、いろいろな題材として取り上げられている。最期については、当時の書物で書かれ方が違う。

治部少輔丸

「伏見・治部少輔丸」についても少し。

当時の伏見城には「治部少輔丸」と呼ばれる石田三成が管理を担当する曲輪(くるわ)があった。伏見城の曲輪は各奉行が管理を担当。

ほかは、

  • 右衛門丸:増田右衛門尉長盛の管理区画
  • 大蔵丸:長束大蔵大輔正家の管理区画

などもあった。

長束正家。丹羽長秀に仕え、秀吉の直参に。五奉行の末席に加わる。
長束正家は、はじめ丹羽長秀に仕える。のち秀吉の直参として奉公衆に抜擢。官位は従五位下・大蔵大輔から従四位下・侍従。近江国水口岡山城主。五奉行の末席に名を連ねる。関ヶ原の戦いでは、石田三成方の西軍に味方するが、捕らえられ切腹。管理人にとって長束正家といえば、映画「のぼうの城」で俳優・平岳大さんが演じた長束正家が印象的。

徳川内大臣VS石田治部少輔

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刑部殿(片岡愛之助)は、家康(内野聖陽)と治部殿(山本耕史)の対決の構図になることを恐れていた。

この二人、源次郎(堺雅人)が言ってるように格が違う。

当時の二人の石高は、

  • 徳川家康:関東に256万石
  • 石田三成:近江佐和山に19万石

家康は、禁止されていた大名同士の縁組を結ぶ。

  • 松平忠輝(家康の六男)と五郎八姫(伊達政宗の娘)
  • 福島正則と継室・昌泉院(徳川家康の養女・牧野康成の娘)

家康(内野聖陽)を糾弾するつもりだったが、ほかの五大老が家康(内野聖陽)の前では何も言えなかった。

「長い物には巻かれろ」ではないが、頼みにしていた上杉景勝(遠藤憲一)までもトーンダウンした。

治部殿(山本耕史)は、追い詰められていた。

治部殿(山本耕史)は秀吉の霊前で何を思ったのだろう。

「腹は決まった」と治部殿は家康打倒を誓う・・・。

石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。
大谷刑部少輔吉継。義の人、石田三成との友情~関ヶ原の戦いで散る
大谷吉継の前半生は少し謎の部分が多いです。「秀吉の隠し子説」は根拠がないが好きな話です。奉行としては優秀だったようです。大谷刑部に関しては賛否両論があり過大評価なんて声もあります。あまり解明されていないからミステリアスでもあり、人気があるのかもしれません。やはり関ヶ原の戦いでの強烈な奮戦と死に様でしょうか・・・。
福島正則。羽柴清須侍従、広島城改修などが原因で晩年は改易
福島正則は羽柴清須侍従などと呼ばれた。幼少期を秀吉の小姓として加藤清正らと育っている。また賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名。朝鮮出兵後は、石田三成らの文治派と対立する。会津征伐に従軍し、小山評定では重要な役割を果たし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利する流れを作った。

「真田丸」第32話「応酬」視聴率

堺雅人主演の大河ドラマ「真田丸」第32話「応酬」が2016年8年14日放映された。平均視聴率は15.8%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。

管理人は内容も少し物足りなく感じました。

SMAPの解散報道、リオデジャネイロ五輪の影響もあるのでしょうか・・・。

「早丸」と呼ばれるBS視聴率は3.7%。早丸までも落ちました。

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まとめ

これは管理人だけなのかもしれませんが、とらえどころがない放送回に感じた。

ボーッと見てしまいました。良くも悪くもないというか・・・。

「秀吉ロス」の影響でしょうか??

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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