福島正則は羽柴清須侍従などと呼ばれた。幼少期を秀吉の小姓として加藤清正らと育っている。また賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名。朝鮮出兵後は、石田三成らの文治派と対立する。会津征伐に従軍し、小山評定では重要な役割を果たし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利する流れを作った。
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福島正則といえば、秀吉子飼いの大名では加藤清正と並び有名である。福島正則についての記事投稿をする。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
目次
福島正則
福島正則(ふくしままさのり)。1561年(永禄4年)~1624年(寛永元年)7月13日。父は福島正信。母は豊臣秀吉の叔母・松雲院。
幼名は市松。母・松雲院は豊臣秀吉の母・大政所(なか)の妹。別名は羽柴清須侍従、高斎。
兄弟は姉(別所重宗室)、高晴。
墓所は梅洞山岩松院の正則廟(長野県小布施町)、正覚院(東京都港区三田。供養塔)、妙心寺海福院(京都市右京区)、高野山悉地院(和歌山県高野町)、新日山不動院(広島市東区)、菊泉院(愛知県あま市二ツ寺)、高井寺(長野県高山村供養塔)。
戒名は海福寺殿月翁正印大居士。
福島正則の妻子
福島正則の妻。
- 正室:照雲院(津田長義の娘)-墓所は妙慶院(広島県広島市)。戒名は照雲院賀屋妙慶大禅定尼。
- 継室:昌泉院(徳川家康の養女・牧野康成の娘)-戒名は昌泉院華景栄春。
福島正則の子。母は正室の照雲院。
- 正友
- 忠勝
- 正利
母は継室の昌泉院。
- 娘(水無瀬兼俊室)
- 娘(大野猪右衛門室)
- 養子:福島正之(甥、姉と別所重宗の子)
- 養女:玄興院(姪、水野忠正の娘、来島長親室)
賤ヶ岳の七本槍~石田三成との対立
1561年(永禄4年)、桶屋を営んだ福島正信(正光)の長男として尾張国海東郡(現在の愛知県あま市)で誕生。星野成政の子で福島正信の養子ともいわれる。
母は豊臣秀吉の叔母・松雲院。松雲院は豊臣秀吉の母・大政所(なか)の妹だったため、幼少より小姓として秀吉に仕える。
- 1578年(天正6年)、播磨三木城の攻撃で初陣。禄高は200石。
- 1582年(天正10年)、山崎の戦い。勝龍寺城攻撃で軍功をあげる。300石を加増されて500石となる。
- 1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦い。一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取る。
- 1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦い。父・正信とともに、後備えとして兵300を率いて参加。
賤ヶ岳の戦いの功により、5,000石を与えられた。これは賤ヶ岳の七本槍の中でも破格の待遇。他の6人は3,000石。
小牧・長久手の戦いでは、本陣から美濃に撤退する際に敵と戦い、褒美として胴肩衣(襦袢)を賜った。
その後、根来寺攻め、四国征伐にも従軍。
- 1587年(天正15年)9月5日、九州平定後、伊予国今治11万石の大名に封ぜられる。
- 1590年(天正18年)、小田原征伐。織田信雄の軍として、蜂須賀家政・細川忠興・蒲生氏郷などとともに韮山城を攻撃し包囲。
- 1592年(文禄元年)、文禄の役。五番隊の主将として戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通総などを率いて京畿道の攻略。
- 1592年(文禄元年)年末、京畿道竹山の守備。
のち福島正則は、いったん日本に帰国。
- 1594年(文禄3年)1月、ふたたび朝鮮に渡海。巨済島の松真浦城や場門浦城の守備・補給などの兵站活動を担当。
- 1594年(文禄3年)10月、場門浦海戦。朝鮮水軍を率いる李舜臣が場門浦を攻撃。
場門浦海戦では、敵船を焼き討ちするなどの反撃で撃退している。
- 1595年(文禄4年)7月、豊臣秀次事件。正則は秀次に切腹の命令を伝えている。
- 1595年(文禄4年)、尾張国清洲に24万石の所領を与えられた。
- 1598年(慶長3年)、羽柴の名字が確認。
- 1598年(慶長3年)8月、豊臣秀吉が死去。
1599年(慶長4年)、秀吉は朝鮮半島に大軍勢を派遣して大規模な軍事行動を計画。軍勢の大将は福島正則・石田三成・増田長盛が抜擢されていた。
秀吉の死去により、計画は実施されず日本軍は大陸から撤兵した。
関ヶ原の戦い
朝鮮出兵を契機とし、石田三成らとの対立が表面化した。
- 1599年(慶長4年)閏3月3日、石田三成襲撃事件。朋友の加藤清正らと共に三成を襲撃。
- 1600年(慶長5年)、会津征伐。6,000人を率いて従軍。
石田三成襲撃事件では、徳川家康に慰留され襲撃を翻意し、その経緯から家康の昵懇大名の一人となる。
正則の養子・正之と家康の養女・満天姫との婚姻を実現。諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反するものだった。
小山評定では、家康の意を受けた黒田長政に懐柔されていた正則が三成挙兵に動揺する諸大名の機先を制して、いち早く家康の味方につくことを誓約し、反転して西上する方針が決定した。
関ヶ原の戦いの前哨戦ともいえる岐阜城攻めでは、池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させている。岐阜城を守っていたのは西軍の織田秀信。
関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家勢1万7,000と戦闘。小早川秀秋の背信を機に、西軍の戦線は崩壊。
正則は西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走。
安芸広島藩主
関ヶ原の戦い後、安芸広島と備後鞆49万8,000石を得た。
- 1601年(慶長6年)3月、芸備に入封。検地で石高の再算出をおこなう。
- 1602年(慶長7年)、厳島神社の平家納経を修復。
- 1602年(慶長7年)、本姓が豊臣姓であることが確認。
検地の結果を農民に公開した上で実収に伴った年貢を徴収して負担を少なくするなどの善政を敷いた。領内の寺社の保護にも熱心であった。
- 1603年(慶長8年)、安芸最西端の地に巨大な亀居城の築城を開始。毛利領最東端の岩国城に対する備えで、山陽道の交通を遮断する能力もあった。
- 1604年(慶長9年)、江戸幕府による諸城修築の動員に参加。
- 1608年(慶長13年)、大坂城の豊臣秀頼を見舞う。
- 1611年(慶長16年)、二条城にて徳川家康と豊臣秀頼が会見。
二条城の会見は、豊臣家が主筋と自負して強硬に反対した淀殿を加藤清正や浅野幸長とともに説得している。
正則自身は病と称して会見に同席せず、枚方から京の街道筋を1万の軍勢で固めて変事に備えた。会見直後に清正や浅野長政・幸長父子、池田輝政といった朋友の豊臣恩顧大名が相次いで死去。
1612年(慶長17年)、病を理由に隠居を願い出るが許されず。
大坂の陣では秀頼に加勢を求められたが正則は拒絶。大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石の接収を黙認するに留まった。
一族の福島正守・福島正鎮は豊臣軍に加わっているが、正則は大坂冬の陣・大坂夏の陣ともに江戸留守居役を命じられた。嫡男・福島忠勝が兵を率いて幕府軍に参加している。
弟・福島高晴は豊臣家に内通したとして、幕府より改易を命じられた。
福島正則の晩年
1619年(元和5年)、台風の被害にあった広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断修繕したとして、武家諸法度違反に問われる。しかし正則は2ヶ月前から届けを出していた。
福島家側の言い分は、雨漏りする部分を止むを得ず修繕しただけだという。正則が謝罪し、修繕した部分を破却するという条件で一旦は沙汰止みになった。
「本丸以外の修築分を破却」という条件に対し、正則は本丸の修築分のみ破却をおこない、二の丸・三の丸の修築分は据え置いた。このため「破却が不十分である」と咎められる。
また人質として江戸に送るはずだった忠勝の出発を遅らせた。正則は「万事親次第」と弁明を拒否。将軍・徳川秀忠は激怒し、安芸・備後50万石は没収。信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減封・転封。
正則は嫡男・忠勝に家督を譲り隠居。出家して高斎とする。
- 1620年(元和6年)、嫡男・忠勝が早世。2万5,000石を幕府に返上。
- 1624年(寛永元年)、高井野(長野県高山村)で死去。享年64。
福島正則の子孫
幕府の検死役の堀田正吉が到着する前に、家臣・津田四郎兵衛が正則の遺体を火葬したため残りの2万石も没収。
幕府は正則の子・福島正利に旧領から3,112石を与えて旗本とする。
福島正利は嗣子がなかったため断絶。しかし福島忠勝の孫・正勝が家を再興し、代々御書院番などを務めた。
福島正則の官位
福島正則の官位について。
- 1585年(天正13年)7月16日、従五位下・左衛門大夫に叙任。平正則。
- 1597年(慶長2年)7月26日、侍従に任官。豊臣正則。羽柴の名字も同時に拝領。
- 1602年(慶長7年)3月7日、左近衛権少将に転任(従四位下に昇叙か?)。豊臣正則。
- 1617年(元和3年)6月21日、従三位に昇叙し、参議に転任。豊臣正則。
- 1617年(元和3年)11月2日、参議辞退。
「左衛門大夫」という官職は実際には存在しない。
正則の時代にはすでにそのような慣習は忘れられて「左京大夫」などの実在の官職との混同が起きていたとする見方があるようだ。
名槍「日本号」
一般的には「武勇に長けるが智謀に乏しい猪武者」というイメージが強く、乱暴者としての逸話がたくさんある。
有名なエピソードを紹介する。
福島正則は酒席で、黒田家家臣・母里友信に酒を大杯で勧め断られた。
「飲み干せたならば好きな褒美をとらす」とさらに勧め、「黒田武士は酒に弱く酔えば何の役にも立たない」と罵倒した。
家名を貶められた母里友信は、元々酒豪だったため酒を見事に一気飲みした。そして褒美に秀吉から拝領した名槍「日本号」を所望され、正則は不覚にも家宝の槍を呑み取られることになった。
という話である。
賤ヶ岳の七本槍
羽柴秀吉方で功名をあげた兵のうち以下の7人は後世に「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」と呼ばれている。
- 福島正則
- 加藤清正
- 加藤嘉明
- 脇坂安治
- 平野長泰
- 糟屋武則
- 片桐且元
実際に感状を得、数千石の禄を得たのは桜井佐吉、石川兵助一光も同様である。7人というのは語呂合わせで、七本槍以外にも石田三成や大谷吉継、一柳直盛も含めた羽柴家所属の14人の若手武将が最前線で武功を挙げたと記録されている。
「賤ヶ岳の七本槍」は譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果ともいえる。
大河ドラマ「真田丸」では深水元基が演じる
大河ドラマ「真田丸」では福島正則を深水元基が演じる。
加藤清正と並び、有名な武将だけに期待している。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
福島正則は母・松雲院が豊臣秀吉の母・大政所(なか)の妹であるので、秀吉の従兄弟になる。
大坂冬の陣・大坂夏の陣ともに江戸留守居役を命じられているので、大坂の役には参加していないが、滅びゆく豊臣家をどのように思ったのだろう・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。