小早川秀秋といえば関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったということになるが・・・。通称「金吾中納言」も有名である。飲酒についてはかなり好きだったようであるというか、飲まなければプレッシャーがありやってられなかったのだろうか。気持ちはわかる。天下人が叔父というのはかなりのもんだと思う。そういう意味では同情してしまう・・・。
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小早川秀秋の裏切りによって、関ヶ原の戦いは東軍が勝利した。それによって石田三成・大谷吉継などの多くの武将が散ってしまったのだが・・・。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
目次
小早川秀秋
小早川秀秋(こばやかわひであき)。1582年(天正10年)~1602年(慶長7年)10月18日。父は木下家定で五男。母は杉原家次の娘。近江国・長浜に生まれる。
幼名は木下辰之助。名は木下秀俊、羽柴秀俊、小早川秀秋、秀詮。通称は金吾中納言、筑前中納言、岡山中納言。
養父は豊臣秀吉、小早川隆景。岡山藩主。官位は従三位・左衛門督、参議、権中納言。
正室は長寿院(古満姫、毛利輝元養女、実父は宍戸元秀)。子は羽柴秀行?
兄弟は木下勝俊、木下利房、木下延俊、木下延貞、木下俊定、木下秀規。
秀吉の養子~越前転封と筑前復帰
越前転封と筑前復帰までを簡単にまとめた。
- 1582年(天正10年)、木下家定(豊臣秀吉の正室・高台院の兄)の五男として近江国の長浜に生まれる。幼名は辰之助。
- 1585年(天正13年)、義理の叔父・羽柴秀吉の養子となる。幼少より高台院に育てられる。元服して木下秀俊。のちに羽柴秀俊(豊臣秀俊)。
- 1588年(天正16年)4月、後陽成天皇の聚楽第行幸。内大臣・織田信雄以下6大名が連署したうちの一人。起請文の宛所が金吾殿(秀俊)。
- 1589年(天正17年)、豊臣秀勝の領地・丹波亀山城10万石を与えられる。
- 1591年(天正19年)、豊臣姓を確認。
- 1592年(文禄元年)、従三位・権中納言兼左衛門督に叙任。「丹波中納言」と呼ばれた。
諸将からは関白・豊臣秀次に次ぐ、豊臣家の継承権保持者とも見られていた。
- 1593年(文禄2年)、秀吉に実子・豊臣秀頼が生まれる。黒田孝高から秀俊養子を勧められた小早川隆景が養子を申し出、認められる。
- 1594年(文禄3年)、秀俊は小早川隆景と養子縁組し小早川秀俊となる。小早川家の家格・待遇が急上昇し、官位は中納言、五大老となる。
- 1595年(文禄4年)、秀次事件に連座して丹波亀山城を没収。隆景が隠居。秀秋は所領30万7,000石を相続する形で筑前(名島城)国主。
- 1597年(慶長2年)、朝鮮半島へ渡海。主な任務は城の普請。
- 1597年(慶長2年)6月、小早川隆景没。
- 1598年(慶長3年)、帰国。
隆景没後の朝鮮在陣期に秀俊から秀秋へ改名。
秀吉より越前・北ノ庄15万石への転封。筑後の旧小早川領は太閤蔵入地となり、石田三成と浅野長政が代官となる。
国内召還と転封は蔚山城の戦いにおける秀秋の軽率な行動が原因とされることが多いが、確実なことは解明されていない。
長く付家老として秀秋を補佐してきた山口宗永は秀吉直臣の加賀・大聖寺城主となり、隆景以来の旧小早川家家臣の高尾又兵衛や神保源右衛門らは、代官として派遣されてきた石田三成の家臣として吸収。
- 1598年(慶長3年)8月、豊臣秀吉が死去。
- 1599年(慶長4年)、秀吉遺命として旧領の筑前名島30万7,000石へ復帰。
関ヶ原の戦い
1600年(慶長5年)、西軍として伏見城の戦いに参加。1万5,000の軍勢を率い、関ヶ原の南西・松尾山に陣を敷いていた伊藤盛正を追い出して布陣。 関ヶ原の戦いである。
午前中は西軍有利に戦況が進展する中、傍観していた。
度々使者を送ったにも関わらず傍観し続ける秀秋に家康は苛立っていたといい、秀秋の陣へ鉄砲を撃ち掛けたとも言う。が本当のことはわかっていない。
秀秋は最終的には家康の催促に応じ、松尾山を下り西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった。小早川勢で一手の大将を務めていた松野重元は主君の離反に納得できなかったため無断で撤退。
秀秋に攻めかかられた大谷勢は寡兵ながらも平塚為広・戸田勝成とともによく戦って小早川勢を食い止めたが、秀秋の離反から連鎖的に生じた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らの離反を受け、大谷・平塚・戸田の諸将は討死。
夕刻までに西軍は壊滅、石田三成は大坂を目指し伊吹山中へ逃亡。
秀秋の離反については、家老の稲葉正成・平岡頼勝と、その平岡の親戚である東軍の黒田長政が中心となって調略が行われており、長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所(高台院)様の為に動いている」と書かれた連書状が現存。
一方で石田三成、大谷吉継ら西軍首脳も秀秋の行動に不審を感じていたらしく、豊臣秀頼が成人するまでの間の関白職と、上方2ヶ国の加増を約束して秀秋を慰留する書状も現存している。
岡山藩主~早世
戦後の論功行賞では備前と美作国と備中国東半にまたがる播磨国の飛び地数郡以外の旧宇喜多秀家領の岡山藩55万石に加増・移封。秀秋から秀詮へと改名。
- 1601年(慶長6年)、長年家老を勤めた重臣・稲葉正成が小早川家を出奔。
- 1602年(慶長7年)、秀秋が急死(享年21)。
大谷吉継が関ヶ原の合戦において自害する際、秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹し、この祟りによって狂乱して死亡に至ったという逸話も残されている。
しかし実際に残されている病歴からは酒色(アルコール依存症)による内臓疾患が死因として最有力である。
秀秋の死後、小早川家は無嗣断絶により改易。徳川政権初の無嗣改易。
小早川家臣は幕府に召し出され、大名となって立藩した平岡頼勝、前田家や紀伊徳川家の家臣となった者もいる。
小早川秀秋の人物像
少年時代は蹴鞠や舞など芸の道に才を見せ、貧者に施しをするなど優れた少年であったようである。
肝硬変
酒の味を覚えると友人達と飲み明かす日々を送るようになり、秀秋の保護者的立場にあった高台院(北政所)を悩ませた。
親交が深かった公卿・近衛信尹も、秀秋の少年期からの過度な飲酒について記している。
秀秋は肝硬変を患っていたとの説がある。
最近では、関ヶ原の戦いでの判断の遅れは、「肝疾患」が原因という意見もある。
高台院(北政所)との関係
飲酒のことでは、保護者的立場にあった高台院(北政所)を悩ませた。
秀秋は高台院から五百両にもおよぶ莫大な借金をしているが、それ以外にも客人への借金申し込みもしていた。
生活は奢侈なものであったようである。
猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織
東京国立博物館には秀秋所用と伝わる「猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織」(しょうじょうひ らしゃじ ちがいがま もよう じんばおり)が所蔵されている。
鮮やかな猩々緋地の羅紗の陣羽織で、背中いっぱいに「違い鎌」紋様を、敵をなぎ倒す尚武的意義と諏訪明神の神体として置布刺繍で貼付けてある。
大胆な意匠が印象的な逸品である。
大河ドラマ「真田丸」では浅利陽介が演じる
大河ドラマ「真田丸」では小早川秀秋を浅利陽介が演じる。
2014年放送の「軍師官兵衛」に続いて同じキャスティングである。
小早川秀秋の肖像画と浅利陽介、ソックリだもんなー(笑)。
小早川秀秋を「三国志」魏延とダブらせる
第31話「終焉」では、小早川秀秋を「三国志」魏延とダブらせている。
秀吉を見舞いに来た「金吾中納言」こと小早川秀秋(浅利陽介)は、なんと蝋燭の火を消してしまった。
脚本家・三谷幸喜氏は、以前のインタビューで「横山三国志で一番好きだったのは、魏延が尻で蝋燭倒して諸葛亮の延命の儀式を台無しにしたシーン」と言っている。
「金吾中納言と蝋燭(ろうそく)」の話は、なんとも三谷氏らしいオマージュであろう。
「三国志」魏延については、軽く真田丸の感想記事で触れています。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
調べてみても本当の「小早川秀秋像」は見えてこなかった。
小早川秀秋って、どんな人物だったんだろう・・・。本当にただのアルコール依存症だったんだろうか?・・・
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。