秀頼が誕生したことにより、多くの人の運命が狂った。別に秀頼のせいではないが、豊臣秀次は典型的な人物であろう。秀次死後、秀吉の期待を一心に背負い秀頼は成長する。豊臣家のプリンス・公達として・・・。豊臣政権の永続を願い崩壊が始まってることに気づかず秀吉は死んだ。そして豊臣政権は永続しなかった・・・。
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豊臣家の公達・豊臣秀頼を調べてみた。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
目次
豊臣秀頼
豊臣秀頼(とよとみのひでより/とよとみひでより)。1593年(文禄2年)8月3日~1615年(慶長20年)5月8日。父は豊臣秀吉。母は淀殿(浅井長政の長女)。
幼名は拾丸。名は豊臣秀頼、藤吉郎。兄弟は石松丸、鶴松。
正室は千姫(徳川秀忠の娘)。側室は和期の方(伊茶、渡辺五兵衛の娘)、小石の方(成田助直の娘)。
子は国松、天秀尼、時国時広?、求厭。
乳母は宮内卿局・右京大夫局(両者は同一人物とも)・正栄尼。養育係は大蔵卿局が務めた。
墓所は京都市東山区養源院、京都市右京区清凉寺、和歌山県高野山奥の院。戒名は帰寂山高陽寺殿秀山大居士。
家督相続
1593年(文禄2年)、大坂城で誕生。父・秀吉は57歳。
秀吉の後継者は、秀吉の養嗣子として関白を譲られた従兄・秀次であった。
- 1593年(文禄2年)10月、秀頼と秀次の娘(槿姫?)が婚約。
- 1595年(文禄4年)7月、豊臣秀次事件。秀次は関白職を剥奪され自刃。
当初、秀吉は「秀吉-秀次-秀頼」の政権継承を模索していた。秀次の娘と秀頼の婚約は、その一環である。
豊臣秀次事件により秀吉の継嗣は秀頼と確定。秀吉は秀頼に忠誠を誓約する起請文を作成し、諸大名に血判署名させている。
- 1596年(慶長元年)9月、禁裏で元服。藤吉郎秀頼と称す。
- 1598年(慶長3年)8月、豊臣秀吉が死去。遺命により伏見城から大坂城に移った。
豊臣政権は秀吉の独裁体制の色彩が強かった。秀吉は御掟・御掟追加などの基本法や五大老・五奉行などの職制を導入して秀頼を補佐する体制を整えた。
秀吉死後、五大老・徳川家康が重臣合議制の原則を無視して影響力を強め、政権内の対立も深まっていった。
五大老・前田利家の死去、七将襲撃事件に伴う五奉行・石田三成の失脚などにより家康は政局の主導権を握った。
関ヶ原の戦い
1600年(慶長5年)、石田三成らが徳川家康に対して挙兵し、関ヶ原の戦いが勃発。秀頼の親衛隊である七手組の一部が西軍に参加。
秀頼は、西軍の総大将である五大老・毛利輝元に庇護された。関ヶ原の戦いは東西両軍とも「秀頼公のため」の戦いを大義とした。戦後、秀頼は家康を忠義者として労った。
家康は戦後処理として羽柴宗家の所領(太閤蔵入地)を分配。全国に分散してた約220万石のうち管理を任せていた所領を奪われた。秀頼は摂津・河内・和泉の直轄地のみを知行する約65万石の一大名の立場に転落。
近年の研究により、秀頼は西日本を中心とした大名への干渉を行ったり、蔵入地からは依然として収入があった形跡がある。
- 1603年(慶長8年)2月、徳川家康が征夷大将軍就任。
- 1603年(慶長8年)7月、婚約していた徳川秀忠の娘・千姫(母は淀殿の妹・江)と結婚。
摂関家としての豊臣家
所領は減ったが、秀頼は摂関家らしく順調な位階や官職の昇進を遂げた。秀頼は独自の官位叙任権を行使。朝廷からは秀吉生前と同様の礼遇を受けた。
この時期、日本にふたつの政権が併存した「二重公儀体制」と評価する説もある。
- 1605年(慶長10年)4月、秀頼が右大臣に昇進。家康は秀頼の上洛と京都での会見を希望したが、淀殿の反対で実現していない。
- 1607年(慶長12年)1月11日、右大臣を辞す。
- 1611年(慶長16年)3月、京都・二条城で家康との会見。加藤清正・浅野幸長が同席。後陽成天皇が後水尾天皇に譲位。
淀殿の反対で会見は実現しなかったが、家康は六男・松平忠輝を大坂城に派遣して秀頼に面会させている。
京都・二条城での家康との会見は、「千姫の祖父に挨拶する」という名目であった。
幕府は豊臣家を五摂家と同じく公家として扱った。朝廷は誕生以来、秀頼を摂家豊臣家の後継者として見なしていた。要するに関白になりうる存在として位置づけていた。
大坂冬の陣
徳川家康は将来の秀頼の扱いについては迷いがあったとされている。二条城での会見で豊臣家討伐を決意したとの説もあるが、1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件を口実に秀頼と決裂し、大坂冬の陣が勃発した。
秀頼は福島正則・加藤嘉明など豊臣恩顧の大名に檄を飛ばしたが、大坂方に味方するものはほとんどいなかった。しかし正則は大坂の蔵屋敷にあった米の接収を黙認している。
浪人になっていた真田信繁・後藤基次・長宗我部盛親・毛利勝永・明石全登などが大坂城に入城。浪人衆は非常に士気旺盛ではあったが統制が取りにくく、大野治長や淀殿らが対立した。
一例をあげると、真田信繁などが京都進撃を唱えたが、大野治長などが反対し大坂城籠城に決まったことなどがある。
戦況はというと木津川口、博労淵などの大坂城の周辺の砦が攻略され、野田・福島の水上戦でも敗れる。今福や鴫野の戦いでも敗れる。一時だけ佐竹義宣軍を詰める抵抗をみせた。
しかし幕府軍も浪人衆の活躍や大坂城の防御力により苦戦。特に真田丸の戦いでは手酷い損害を受けた。
そこで幕府軍は城内に昼夜を問わず砲撃。一発の砲弾が淀殿の居室に着弾し、侍女の身体を粉砕し淀殿を震え上がらせたという。淀殿が和議に賛成した理由との説もある。
大坂方・幕府軍双方の食糧・弾薬が尽き始め、家康は和議を提案。
当初、秀頼は和議に反対したといわれているが、淀殿の主張などによって和議が実現。
大坂夏の陣
大坂方・幕府軍での和議は、大坂城の堀の破却を条件として結ばれた。大坂方が和議の条件を履行しなかったため、幕府は自ら工事を進めて堀を埋めただけでなく、城郭の一部も破壊した。幕府は本丸を残し堀を埋め尽くした。
幕府が勝手に堀を埋めたと言われることもあるが、外堀だけではなく、本丸を残し堀を埋め尽くすことは双方合意に基づくもののようである。
1615年(翌慶長20年)、大坂方は浪人の総追放、国替えを拒否。堀を掘り返し始めた。家康は戦争の再開を宣言し、大坂夏の陣が勃発する。
大野治房が大和郡山に出撃し、これを制圧。主力軍が八尾方面に進軍。八尾・若江、道明寺で戦い、長宗我部盛親が藤堂高虎勢を壊滅。木村重成・後藤基次が討ち死にしたため撤退。
浅野長晟を討つべく大野治房らが紀州に出撃。樫井の戦いで先陣・塙直之が浅野軍に破れた。大野治房は帰城。
敗戦続きの大坂方は天王寺・岡山の戦いで最終決戦を挑む。真田信繁は豊臣軍の士気を高めるために秀頼が前線に出馬することを望んだが実現していない。
岡山口方面では大野治房率いる軍勢が秀忠の本陣まで迫った。しかし態勢を立て直した幕府の大軍の前に撤退。
天王寺方面には真田信繁・毛利勝永らが布陣。信繁は「日本一の兵(つわもの)」と称賛されるほどの攻勢、家康の本陣に近づいて、数度にわたる突撃を敢行。
一時は家康に自刃を覚悟させるほどにまでに追いつめたが、ついに力尽きた。信繁は退却中に討ち死にし、他の大坂方の部隊も壊滅。
幕府軍は大坂城内に入城。城内の浪人たちまでが裏切って略奪をはじめた。
天守閣は炎上し、秀頼母子は山里丸に逃れたが、徳川軍に包囲された。大野治長は千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願したが、家康は容認していない。
秀頼は淀殿や大野治長らとともに自害。享年23(満21歳没)。
大野治長は片桐且元に通報しているが、且元はこのことを将軍・徳川秀忠に知らせている。
秀頼の死後
子・国松は逃亡したが捕らえられて殺害された。娘・天秀尼は千姫の働きかけもあり仏門に入ることを条件に助命。
また元禄初頭に80歳で没した求厭は臨終の際に、自分は大坂落城時に3歳だった秀頼の次男だと語ったといわれる。
大阪市中央区の豊國神社は、父・秀吉、叔父・秀長と共に秀頼も祭神としている。
- 1980年(昭和55年)、大坂城三ノ丸跡の発掘調査。1人の頭蓋骨、首のない2人の骨、馬1頭の頭の骨が発見。
- 1983年(昭和58年)、骨は京都の清凉寺に埋葬。
- 2011年(平成23年)10月13日、大坂城三ノ丸に位置する大坂城鎮守社である玉造稲荷神社に秀頼の銅像が建立。
発見された頭蓋骨は20代男性のもので、顎に介錯されたとみられる傷、左耳に障害があった可能性が確認。年齢や骨から類推する体格から秀頼のものではないかと推測された。
秀頼の官位履歴
押小路家文書によれば、左大臣の辞令(宣旨)が現存するらしいが右大臣までとした。
1596年(文禄5年)5月、「太田牛一旧記」によれば、「左近衛権中将(さこのえごんのちゅうじょう)従四位下(じゅしいのげ)臣豊臣朝臣藤吉郎秀頼」を名乗ったとする。
最初は、従四位下・左近衛権少将に叙任、すぐに左近衛権中将のようです。
- 1597年(慶長2年)9月27日、従三位に叙し、左近衛権中将に任ず。
- 1598年(慶長3年)4月20日、従二位に叙し、権中納言に任ず。
- 1601年(慶長6年)3月27日、権大納言に任ず。
- 1602年(慶長7年)1月6日、正二位に叙す。
- 1603年(慶長8年)4月22日、内大臣に任ず。(徳川家康の右大臣昇進のため)
- 1605年(慶長10年)4月13日、右大臣に任ず。(徳川家康辞任のため。後任の内大臣は徳川秀忠)
- 1607年(慶長12年)1月11日、右大臣を辞す。
中将から参議を経ずに直接中納言に任ずるのは、羽柴家が摂関家であることを明示。
秀頼評
随筆「明良洪範」(増誉)では、
「秀吉公ノ実子ニアラズ 大野修理ト密通シ捨君ト秀頼君ヲ生セ給フト 」
と記述された。
身長6尺5寸(約197cm)・体重43貫(約161kg)の並外れた巨漢であったとする。
「長澤聞書」では、
「世に無き御太り」
と記述された。
家康は二条城で秀頼と会見している。巨体から醸し出されるカリスマ性に恐怖し、豊臣家打倒を決意したという逸話もあるほど、武将としての威厳はあったとされている。
本当に秀吉の実子なのか?
「本当に秀吉の実子なのか?」なんてタイトルに書いたが、実際のところはわからない。
ただ前述の「明良洪範」にも記述されていたり、秀頼の体格から実父は大野治長という説は根強い。
それから秀頼生存説があったりする。
その辺のことは淀殿・大野治長の記事でも少し触れているので、参考になればと思う。
大河ドラマ「真田丸」では中川大志が演じる
大河ドラマ「真田丸」では豊臣秀頼を中川大志が演じる。
今までとは違った豊臣秀頼像を期待している!
第38話「昌幸」
中川大志さん演じる豊臣秀頼が、第38話「昌幸」で初登場!
いや~凛々しくて格好いいです。
詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
「真田丸」での大坂冬の陣・大坂夏の陣が待ち遠しいですね。
凛々しい豊臣秀頼を期待しているのだが・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。