石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。
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石田三成いいですね~。特に好きな武将です。確かに関ヶ原の戦いでの敗軍の将ではあるのだが・・・。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
目次
石田三成
石田三成(いしだみつなり)。1560年(永禄3年)~1600年(慶長5年)10月1日。父は石田正継で次男。母は岩田氏(瑞岳院)。近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれる。
幼名は佐吉。別名は石田治部少。近江・佐和山城主。従五位下・治部少輔。豊臣政権の五奉行の一人。
兄弟は正澄、福原長堯正室、熊谷直盛正室。
妻は正室・皎月院(宇多頼忠娘)。子は重家、重成、山田隼人正室、岡重政室、荘厳院(三女。津軽信枚室)。
墓所は大徳寺三玄院、高野山奥の院、滋賀県彦根市佐和山遊園内。戒名は江東院正軸因公大禅定門。
秀吉の子飼い~小牧・長久手の戦い
秀吉の子飼いから小牧・長久手の戦いを簡単にまとめた。
- 1560年(永禄3年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれる。
- 1574年(天正2年)、父・正継、兄・正澄と共に近江・長浜城主・羽柴秀吉に仕官。1577年(天正5年)説もあり。
- 1582年(天正10年)6月、本能寺の変。
- 1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦い。偵察行動を担当し、先駈衆として一番槍の功名をあげた。
- 1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦い。近江国・蒲生郡の検地奉行。
羽柴秀吉が天下人として台頭すると、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。
従五位下・治部少輔~近江・佐和山城主
従五位下・治部少輔から近江・佐和山城主を簡単にまとめた。
- 1585年(天正13年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下・治部少輔に叙任。
- 1585年(天正13年)末、近江国・水口4万石の城主。
- 1586年(天正14年)1月、島清興(左近)を知行の半分(2万石)で召し抱える。秀吉は左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた。
- 1586年(天正14年)、上杉景勝上洛のおり斡旋。堺奉行。
- 1587年(天正15年)、秀吉の九州平定。後方の兵糧・武具などの輜重を担当。九州平定後、博多奉行。軍監の黒田孝高らと共に博多町割り、復興に従事。
水口には1585年(天正13年)7月に中村一氏が6万石で入っており、その後は1590年(天正18年)に増田長盛、1595年(文禄4年)に長束正家と引き継がれている。
- 1588年(天正16年)、薩摩国・島津義久の秀吉への謁見を斡旋。
- 1589年(天正17年)、美濃国を検地。
- 1590年(天正18年)、小田原征伐。後北条氏の支城の館林城、忍城を攻撃。常陸国・佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋。奥州仕置後の奥州における検地奉行。
- 1592年(文禄元年)、文禄の役。増田長盛、大谷吉継と共に漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。
- 1593年(文禄2年)、碧蹄館の戦い、幸州山城の戦いに参加。明軍の講和使・謝用梓、徐一貫と肥前・名護屋で講和交渉。
- 1594年(文禄3年)、島津氏・佐竹氏の領国を奉行として検地。
- 1595年(文禄4年)、豊臣秀次事件。秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問。
- 1595年(文禄4年)、秀次の死後、その旧領のうち、近江7万石が三成の代官地となる。近江佐和山19万4,000石を得る。
- 1596年(慶長元年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。明の講和使節を接待。
- 1596年(慶長元年)、京都奉行。キリシタン弾圧。
秀吉に命令されたキリシタン弾圧だが、捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りを宥めて信徒達が処刑されないように奔走した。(日本二十六聖人)
- 1597年(慶長2年)、慶長の役では国内で後方支援。
- 1598年(慶長3年)、小早川秀秋の領地であった筑後国・筑前国の下賜提案を辞退。筑後国・筑前国の蔵入地の代官。名島城を与えられた。
慶長の役の蔚山城の戦いの際に在朝鮮の諸将によって戦線縮小が提案された。激怒した秀吉は提案に参加した大名を譴責や所領の一部没収などの処分をしている。
現地から状況を報告した軍目付は三成の縁戚である福原長堯だった。文禄・慶長の役で武断派の福島正則、加藤清正、黒田長政、蜂須賀家政らとの対立は決定的になった。
1599年(慶長4年)、朝鮮における大規模攻勢では福島正則や増田長盛と共に出征軍の大将となることが予定されていた。
が、1598年(慶長3年)8月に秀吉が死去。代わって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力している。
石田三成襲撃事件
豊臣秀吉の死後からを簡単にまとめた。
- 1598年(慶長3年)8月18日、豊臣秀吉が伏見城で死去。
- 1598年(慶長3年)8月19日、三成は五大老・徳川家康を暗殺しようとしている。
- 1598年(慶長3年)8月28日、五大老・毛利輝元と浅野長政以外の四奉行が起請文を交わす。
この起請文には三成の加筆があった。秀頼に逆心するものがあれば起請文に署名した5人が力を合わせるという内容で、秀吉の徒党を組むことを禁じる遺命に反した行為であったのだが・・・。
家康は、三成と対立関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政ら武断派と、豊臣氏に無断で次々と縁戚関係を結んだ。
- 1599年(慶長4年)1月21日、家康の無断婚姻を「秀吉が生前の1595年(文禄4年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り問罪使派遣。
- 1599年(慶長4年)2月2日、家康が利家・三成らと誓紙を交わして和睦。
- 1599年(慶長4年)閏3月3日に大老・前田利家が死去。
武断派は朝鮮出兵における蔚山城の戦いの査定などで、以前から三成派に恨みを抱いていた。大坂城下の加藤清正の屋敷に集合し、そこから三成の屋敷を襲撃し、三成を討ち取る計画を立てた。
石田三成は豊臣秀頼の侍従・桑島治右衛門の通報により武断派の計画を察知し、島清興らとともに佐竹義宣の屋敷に逃れる。
七将は三成不在が分かると、大坂城下の諸大名の屋敷を探し、加藤清正は佐竹邸にも迫った。
この場合の七将とは武断派の
- 加藤清正
- 福島正則
- 黒田長政
- 細川忠興
- 浅野幸長
- 池田輝政
- 加藤嘉明
である。
三成一行は佐竹邸を抜け出し、京都の伏見城に、自身の屋敷がある事を活かして立て篭もった。
翌日、伏見城も武断派に取り囲まれることとなるが、伏見城下で政務を執っていた徳川家康より仲介を受ける。
七将が家康に三成を引き渡すように要求したが、家康は拒否。
家康は、その代わり以下のことを七将に約束している。
- 石田三成の隠居
- 蔚山城の戦いの査定の見直し
次男・結城秀康に三成を三成の居城・佐和山城に送り届けさせている。
感謝した三成は豊臣秀吉からの拝領品であり、武将の間で羨望の的だった名刀・正宗を秀康に譲った。
江戸時代、「石田三成」の名を口にすることは憚られたが、秀康はこの刀を「石田正宗」と名付けて終生愛用したという。
ドラマなどで三成が家康の屋敷に逃げ込んだとされる逸話は根拠のない俗説であり史実ではない。史実ではないがドラマチックではある(笑)。
関ヶ原の戦い
ついに 関ヶ原の戦いである。
- 1600年(慶長5年)6月、徳川家康が会津・上杉景勝を征伐(会津征伐)のため大坂城を出陣。
- 1600年(慶長5年)7月12日、三成は兄・正澄を奉行として近江国・愛知川に関所を設置。会津征伐に向かう西国大名、鍋島勝茂や前田茂勝らの東下を阻止し、強引に自陣営(西軍)に与させた。
- 1600年(慶長5年)7月13日、諸大名の妻子を人質として大坂城内に入れるため軍勢を送り込む。しかし人質作戦は失敗した。
加藤清正の妻をはじめとする一部には脱出され、細川忠興の正室・玉子(ガラシャ)には人質となることを拒絶され屋敷に火を放って死を選ぶという壮烈な最期を見せられた。
- 1600年(慶長5年)7月17日、毛利輝元が西軍の総大将として大坂城に入城。前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布。
- 1600年(慶長5年)7月18日、西軍は家康の重臣・鳥居元忠が留守を守る伏見城を攻めた(伏見城の戦い)。伏見城が陥落しなかったので三成は、長束正家と共に甲賀衆の家族を人質にとって脅迫した。
- 1600年(慶長5年)8月1日、甲賀衆は三成の要求に従って城門を内側から開けて裏切り、伏見城は陥落。
- 1600年(慶長5年)8月2日、三成は伏見城陥落を諸大名に伝えるため、毛利輝元・宇喜多秀家、自らも連署して全国に公布。
- 1600年(慶長5年)9月14日、思いがけず小早川秀秋が松尾山に陣取ったため、三成は当初の大垣城に依り美濃で食い止める方策を捨て、関ヶ原で野戦を挑むこととなった。
- 1600年(慶長5年)9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦い。
当初は西軍優勢であった。石田隊は6,900人であったが、黒田長政・加藤嘉明・細川忠興・田中吉政ら兵力では倍以上の敵に幾度となく攻め立てられた。
高所という地の利と島左近・蒲生頼郷・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。
が、西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた。
三成は相川山→春日村→新穂峠→姉川→曲谷→七廻り峠→草野谷→高時川の上流→古橋に逃れた。
- 1600年(慶長5年)9月18日、居城・佐和山城が落城。
- 1600年(慶長5年)9月21日、田中吉政の追捕隊により捕縛。
- 1600年(慶長5年)9月22日、大津城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見。
- 1600年(慶長5年)9月27日、大坂に護送。
- 1600年(慶長5年)9月29日、京都に護送。奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。
- 1600年(慶長5年)10月1日、六条河原で斬首。享年41。
辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。
首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。
三献茶
秀吉と三成の出会いのエピソード「三献茶」はあまりにも有名である。JR長浜駅前には「秀吉公と石田三成公の出逢いの像」があります。
近江国・伊吹山の観音寺(伊香郡古橋村の三珠院という説もある)に、鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄った。
寺小姓に茶を所望した際、寺小姓は最初に大きめの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。
まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな知恵配り・心遣いに感じ入った秀吉は彼を家来として採用した。
それがのちの石田三成である、という話である。
真田昌幸は義兄?
真田昌幸の正室・山手殿の出自については多数説がある。その中に宇多頼忠の娘という説がある。
三成の正室・皎月院は宇多頼忠の娘だ。
山手殿が宇多頼忠の娘ならば昌幸は三成の義兄になる。
忍城の戦い
「のぼうの城」で有名な忍城の戦いを取り上げる。
豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した戦い。1590年(天正18年)6月5日から7月17日まで続いた。「真田丸」で有名な真田昌幸・信繁父子も参戦している。
小田原城の後北条氏が降伏して忍城は開城。しかし北条方の支城で落城しなかったのは忍城だけである。
石田三成が忍城を水攻めするが失敗。これにより三成は戦下手のレッテルを張られるのだが・・・。実際に水攻めを支持したのは秀吉であるという説がある。
石田堤
石田三成は忍城を水攻めにする際に堤を築く。それが「石田堤」と呼ばれる。
現在は行田市堤根地区の「石田堤歴史の広場」、鴻巣市の「石田堤史跡公園」として残っている。
詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
真田丸では山本耕史が演じる
大河ドラマ「真田丸」では石田三成を山本耕史が演じている。
ピッタリですね~。同じ三谷幸喜脚本で土方歳三に見えてしまうこともなくはないが(笑)。
登場したばかりですが、どんな石田三成を演じてくれるのか楽しみデス!
第37話「信之」
第37話「信之」では治部殿(山本耕史)の最期が描かれている。
詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
どうしても官僚タイプの石田三成は、ドラマなどで「非情で冷たい」人物に描かれてしまう。
果たしてそうなんだろうか?管理人は、そうは思わないんだが・・・。
三成が主人公のドラマを見てみたいもんだ。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。