後藤又兵衛(基次)。「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂城五人衆」の一人に数えられた。官位は従六位下・隠岐守。黒田家を出奔したのに「黒田二十四騎」「黒田八虎」に数えられているのが凄い!黒田家を出奔したのは他国の者(細川氏、池田氏)と頻繁に書状を交わすことに原因があったとされる。生存説などは多数で、伝承が多い武将である。
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こんな劇的な人生があるだろうか・・・。後藤又兵衛(基次)について記事投稿します。
それではいってみよう!
目次
後藤基次
後藤基次(ごとうもとつぐ)。1560年(永禄3年)4月10日~1615年(慶長20年)5月6日?。父は後藤基国。母は神吉頼氏女。
通称は又兵衞で、後藤又兵衛(ごとうまたべえ)として広く知られる。官位は従六位下・隠岐守。
幼名は弥八郎。改名は基次、氏房、正次、年房。兄弟は基秀、基景。
先妻は不詳。後妻は三浦四兵衛女。
子は一意、基則、正方、又市、基芳、三浦為勝、娘(野村祐直室)、山中藤太夫室、ほか子女数名。
墓所は、
- 奈良県宇陀市の薬師寺
- 大阪府柏原市の玉手山公園
- 愛媛県伊予市の長泉寺
- 大分県中津市
- 鳥取県鳥取市の景福寺
- 兵庫県姫路市の福田寺
など。
戒名は西照院殿夏安道蓮大居士、心岩宗伝居士(福岡金龍寺過去帳)、他。
「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂城五人衆」の一人に数えられた。
出生説
後藤基次(又兵衛)の出生には諸説ある。
「大日本史」などによると、
1560年(永禄3年)、播磨国姫路近郊の神東郡山田村に誕生。父は別所氏家臣で、のちに小寺政職の下にいた後藤新左衛門(基国?)(後藤氏当主・伯父説あり)の次男として生まれた。
1578年(天正6年)、黒田孝高(官兵衛)が荒木村重によって有岡城に幽閉。
黒田家家臣一同の誓紙への署名を又兵衛の伯父・藤岡九兵衛が拒否したため一族追放。仙石秀久に仕えている。
黒田家臣
1586年(天正14年)、九州征伐の宇留津城攻め。基次は、この頃より当時の記録に登場する。
戸次川の戦いで仙石秀久が島津家久に大敗。秀久は領国・讃岐国に逃げ帰った。
これにより、黒田孝高(官兵衛)の重臣・栗山利安の与力となり、黒田家に100石で仕える。
領地替え問題により、城井氏との戦いが勃発。吉田長利とともに黒田長政に退却を勧めるが、聞き入れられずに敗北を喫した。
- 1587年(天正15年)12月、長岩城攻め。瀕死の重傷を負う。
- 1592年(文禄元年)、朝鮮出兵にも従軍。
第二次晋州城攻防戦においては亀甲車なる装甲車を作って城壁を突き崩し、加藤清正家臣の森本一久らと一番乗りを競った。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦い。剛槍使いである石田三成家臣・大橋掃部を一騎討ちで破るなどの武功を挙げる。
戦後は黒田家重臣の一人となる。筑前六端城の一つ、大隈城(益富城)の城主となる。
所領は16,000石。実際は10,000石から14,000石が妥当とする指摘がある。
黒田家出奔
1606年(慶長11年)、基次は一族揃って、黒田長政が当主となった黒田家を出奔。黒田如水(孝高の法号)の死から2年後であった。
基次が他国の者(細川氏、池田氏)と頻繁に書状を交わすことに原因があったとされる。
基次(又兵衛)は豊前国・細川忠興を頼った。黒田家と細川家は、元から関係がこじれていたので一触即発の状況になった。徳川家康などの仲裁もあり細川家を退去している。
福島正則・前田利長・結城秀康などは、基次の智勇を惜しんだ。長政により「奉公構」という措置がなされていたため実現していない。
※奉公構(ほうこうかまい、ほうこうかまえ)。武士に対する刑罰の一つ。大名が、出奔した家臣又は改易した者について、他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すことをいう。
基次(又兵衛)は故郷・播磨国に戻り、領主・池田輝政を介して岡山・池田忠継に仕えた。
「奉公構」の影響により、1611年(慶長16年)から京都で浪人生活を送った。浪人した時期は1613年(慶長18年)6月、池田輝政の死後ともいわれる。
1611年(慶長16年)、基次(又兵衛)の黒田家への帰参問題がおこる。長政は幕府を通して交渉を行ったが、基次と連絡がうまくとれず実現していない。
大坂冬の陣・大坂夏の陣
1614年(慶長19年)、大坂冬の陣。大野治長の誘いにより、大坂城に入城。
旗頭として天満の浦での閲兵式の指揮を任される。采配の見事さから「摩利支天の再来」と称された。
徳川家康からは、基次と御宿政友のみが警戒される名望家であった。「大坂城五人衆」の一人に数えられる。
山川賢信、北川宣勝以下を与力とし、大野治長・治房らを補佐した。
大坂冬の陣では6000人の遊軍を任され、鴫野・今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した。
- 1615年(慶長20年)5月、大坂夏の陣。道明寺の戦い。大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いた。
- 1615年(慶長20年)5月6日未明、平野郷から出陣。
徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊が、既に国分村まで進出。
中間にあった小松山に布陣し、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次(奥田忠高の子)を討ち取る。
後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁らの軍が霧の発生により到着が遅れ、伊達政宗の家臣・片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上となった相手に対した。
基次は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死した。享年56。
生存説
後藤又兵衛(基次)は、定説では大坂夏の陣で討死したことになっている。しかし講談や軍記が日本各地に広まって読まれ、幾多の戦役を生き延びたという伝説が各地に残る。
- 奈良県宇陀市-隠遁生活の後に一生を終えたという伝説が残る。屋敷跡と伝えられる場所には又兵衛桜(瀧桜)と呼ばれる桜の大木が残っている。
- 大分県中津市の耶馬渓-「後藤又兵衛の墓」が残っている。
「後藤又兵衛の墓」に纏わる話の内容は、
大坂夏の陣で戦死した基次は影武者で、大坂城落城の前に豊臣秀頼を護衛し、真田幸村(信繁)と共に瀬戸内海から豊後国日出に上陸して薩摩国の島津氏を頼りに落ち延びるという計画を実行していた。
上陸後、秀頼一行との再会を誓い日田の地で別れた基次は、かつて黒田氏が中津を領していた頃の知人である女性・お豊のいる伊福の里に向かう。
お豊や里の人々と平穏な日々を過ごしていたが、やがて秀頼の病死を知った基次は、豊臣家再興の夢が断たれた悲しみから、1654年(承応3年)1月29日、お豊の家で自刃した。
基次の死後しばらくしてから、村人が墓を建立したが年月を経て欠壊し、現在残っている墓は、1763年(宝暦13年)に伊福茂助が建て替えた物である。
少し長いが、これが「後藤又兵衛の墓」に纏わる話の内容だ。
徳川家康の墓
大坂夏の陣・岡山の戦いにおいて、真田幸村(信繁)により家康の本陣が突き崩された。
逃げ回る家康が基次に討たれたとする有名な講談がある。
堺の南宗寺には「家康の墓」も遺されている。
後藤基次のエピソード
後藤又兵衛(基次)の伝承を記述。
城井谷崩れの際、又兵衛(基次)が捕虜になったとの伝承もあり、その間に作ったとされる手水鉢が正光寺に寄進されている。
講談や軍記物語では、名槍「天下に二ツの槍(日本号)」は、虎退治で母里友信の窮地を救った基次が譲り受け、これを出奔時に友信の弟・野村祐勝の息子、野村祐直に渡されたとされる。
子・左衛門が大坂で長政の刺客に誘拐された時、秀頼により救出され、毛利家に仕えたという。これに感謝して大坂方に付いたと言われる。左衛門は大坂の陣後、自刃を言い渡されている。
大坂の陣で基次に近侍した長沢九郎兵衛の「長沢聞書」によると、
「傷を風呂で数えると、53箇所あった。」
「指揮の声が通りやすいように、外していた面頬を持たされていた。」
「真田丸の戦いは偶発戦ではなく、城兵と内通していた松平忠直を偽矢文で誘い出したもので、基次も采配を振るって雷のような攻撃を行った。」
などの要旨の記載がある。
道明寺の戦いの数日前、平野郷での滞陣中に家康の参謀・本多正信の親族で、基次と長宗我部盛親の旧知であった京都相国寺の僧・揚西堂が、家康からの使者として訪れる。
播磨で50万石という法外な条件での帰順を持ちかけられたが、感激するもこれを拒絶する。これにより、徳川方への内通との噂も立っている。
後藤又兵衛(基次)の最期は、
- 伊達家では片倉重長鉄砲隊が討ち取ったとしている。
- 「武功雑記」では、松平忠明配下の山田十郎兵衛が討ち取ったとしている。
- 「難波戦記」では、腰を撃たれ歩行不能となったため部下・吉村武右衛門に命じて介錯された。
- 「長沢聞書」では、首を奪い返し、深田に隠されたとしている。
- 「伊予古跡誌」では、基次の首は後日、吉村武右衛門に持ち帰られ、基次の伯父が住職を務めていた伊予国・長泉寺に埋葬されたとしている。
この寺には2015年、後藤又兵衛の石像が建立。
大坂五人衆
大坂冬の陣・大坂夏の陣で活躍した豊臣方の牢人たちを総称して「大坂五人衆・大坂城五人衆・大坂牢人五人衆」と呼ぶ。
メンバーは、
- 長宗我部盛親
- 真田信繁(幸村)
- 毛利勝永
- 後藤又兵衛(基次)
- 明石全登
大河ドラマ「真田丸」では哀川翔が演じる
大河ドラマ「真田丸」では後藤又兵衛(基次)を哀川翔が演じる。
真田丸で大坂冬の陣・大坂夏の陣がどのように描かれるか楽しみである。
テレビドラマでは、以下の人物が演じた。
- 1985年「真田太平記」-近藤洋介
- 2000年「葵 徳川三代」-重松収
- 2011年「江〜姫たちの戦国〜」-木村栄
- 2014年「軍師官兵衛」-塚本高史
管理人にとっては、塚本高史が印象的だ!
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
後藤又兵衛に関する書物・講談は多数存在する。そして墓所の多さ。
それだけ多くの人に愛された証拠だろうか・・・。
本当は大坂夏の陣で討ち死にしていないんじゃないかと思いたくもなる。
歴史のロマンを感じる武将です・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。