熊本城築城、賤ヶ岳の七本槍、虎退治、地震加藤などで有名な加藤清正。エピソードが多い武将だ。意外だが、文禄・慶長の役まで大軍を指揮していない。当初から石田三成と対立していたわけではなく、ただの「猪武者」でもないようだ。勇猛果敢な豪将のイメージがあるが最初の官位は従五位下・主計頭である。そこに込めた秀吉の思いとは・・・。
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加藤清正、管理人が好きな武将の一人です。豊臣恩顧の武将ということで福島正則と並び称されるが、少しタイプは違うようだ・・・。
歴史好きの管理人が好き勝手に記事投稿します。
それではいってみよう!
目次
加藤清正
加藤清正(かとうきよまさ)。1562年(永禄5年)6月24日~1611年(慶長16年)6月24日。父は加藤清忠。母は伊都(鍛冶屋清兵衛の娘)。尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれる。
幼名は夜叉丸。別名は虎之助。肥後熊本藩初代藩主。
正室は山崎氏(山崎片家女)。継室は清浄院(水野忠重女・徳川家康養女)。
側室は本覚院(菊池武宗女)、浄光院(赤星太郎兵衛女)、正応院(玉目丹波女)。
子は百助(養子・山崎片家子)、虎熊、忠正、忠広、あま姫(古屋、本浄院、榊原康勝正室のち阿部政澄正室)、八十姫(瑤林院、徳川頼宣正室)。
墓所は本妙寺(熊本県熊本市)、天澤寺(山形県鶴岡市)、覚林寺(東京都港区)、池上本門寺(東京都大田区)、本圀寺(京都市山科区)。
戒名は浄池院殿永運日乗大居士。
「三振法」を取り入れたことで知られる。これは武士のみが対象であったが、軽微な罪や式典で粗相を3回起こすと切腹を申し付けられるものであった。
秀吉の子飼い~肥後統治
秀吉の子飼いから肥後統治までを簡単にまとめた。
- 1562年(永禄5年)6月24日、加藤清忠の子として加藤清正が生誕。
- 1573年(天正元年)、近江長浜城主・羽柴秀吉の小姓になる。母が秀吉の生母・大政所の従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であった。
- 1576年(天正4年)、170石の知行。
- 1580年(天正8年)9月19日、秀吉から播磨国神東郡内に120石の知行。
- 1582年(天正10年)4月14日、豪の者・竹井将監を討ち取る。
- 1582年(天正10年)、本能寺の変。山崎の戦い。
- 1583年(天正10年)、賤ヶ岳の戦い。敵将・山路正国を討ち取る武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられた。
- 1586年(天正14年)、秀吉の九州平定。肥後国領主・佐々成政が失政により改易されると、肥後北半国19万5,000石を与えられ、熊本城を居城とした。
- 1589年(天正17年)、小西領・天草一揆を鎮圧。小西行長の説得を無視して出兵を強行している。
清正が肥後半国を与えられた理由は、佐々成政の失政にもあるように九州平定が終わった直後に肥後国人一揆が発生し、不安定な政治情勢が続いていた。
長年代官を務め、九州平定・肥後国人一揆後に上使として派遣されて現地に通じている清正に肥後半国を託したと考えられている。
肥後南半国は同様に上使を務めていた小西行長に与えられている。
文禄の役
1592年(文禄元年)からの文禄の役では、朝鮮へ出兵。
一番隊から三番隊は、
- 一番隊主将:小西行長
- 二番隊主将:加藤清正は鍋島直茂、相良頼房などを傘下に置く
- 三番隊主将:黒田長政
であった。
- 1591年(天正19年)、清正は領国の家老2名に対して36か条に及ぶ出兵の準備に関する指示を出している。
- 1592年(文禄元年)4月17日、釜山上陸。
- 1592年(文禄元年)5月3日、南大門から漢城に入城。
漢城攻略後は一番隊や三番隊と共に北上し臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破る。
その後黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かった。海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定して朝鮮二王子(臨海君・順和君)を捕虜にした。
明への侵攻路から外れた辺境で敵軍も少なかった二番隊は大きな抵抗を受けずに侵攻を続けた。
一番隊や三番隊の苦戦を知る日本本国では清正が虚偽の戦果を報告しているのではないか?と疑惑を持たれることとなる。
これが一番隊主将・小西行長や本国と現地の取次をしていた石田三成への不信の発端になったとみられている。
その後、清正は侵攻を続けるが、明軍が現れたことにより漢城に入る。
1593年(文禄2年)6月、第二次晋州城の戦いで加藤軍は北面からの攻城を担当し、亀甲車を作り、配下の森本一久・飯田直景が、黒田長政配下の後藤基次と一番乗りを競い城を陥落させている。
明・朝鮮と本格的な交渉が始まると、清正は主に惟政らに秀吉の講和条件をそのまま伝えた。秀吉の命令を無視してでも和睦を結ぼうとする小西行長と対立した。
清正が講和の邪魔になった行長は、「豊臣姓を勝手に名乗ったこと」「独断専行した罪」などを秀吉に訴えた。石田三成が行長を支持したので清正は京に戻され謹慎。
清正の帰国については講和進展と明使の来日に伴う軍の一部撤退による帰国であるとする説も出されているのだが・・・。
地震加藤
「地震加藤」として慶長伏見地震(1596年(文禄5年)閏7月13日)の際、秀吉の伏見城へ駆けつけ、その場で弁明したことにより許されたとされる逸話がある。
清正が地震の2日後に領国に送った書状には、
「(自分が無事だったのは)伏見の屋敷が完成していなかったから」
「(地震の為に)京から胡麻を取り寄せて領国に送るのが遅くなる」
とある。
清正がいたのは伏見、京ではなく大坂であったことが推定されている。真っ先に駆けつけたとする逸話は史実ではなかったとみられている。
慶長の役
1597年(慶長2年)からの慶長の役では、左軍の先鋒となった小西行長に対し、右軍の先鋒となる。
小西行長は明・朝鮮軍側に清正の上陸予想地点を密かに知らせ、清正を討たせようとしている。敵の李舜臣はこれを罠だと判断して出撃せず、清正は攻撃を受けていない。
西生浦倭城を発った清正は全羅道に向かって西進し、朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させると、全羅道の道都全州を占領。忠清道鎮川まで進出した。
清正は西生浦倭城の東方に新たに築城される蔚山の地に入り、自ら縄張りを行った後、加藤安政等を配備して西生浦倭城に移った。清正は西生浦倭城に加え蔚山倭城の守備担当であった。
1597年(慶長2年)12月、蔚山城の戦い。57,000人の明・朝鮮軍が攻め寄せた。側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城。明・朝鮮軍に20,000人の損害を与えている。
1598年(慶長3年)9月、再び蔚山倭城は攻撃を受けたが敵を撃退している。
朝鮮の民衆から清正は「鬼(幽霊)上官」と恐れられている。清正はセロリを日本に持ち込んだと伝わり、セロリの異名の一つが「清正人参」である。
清正が持ち帰ったとされる石を彫り抜いて作られた掘り抜き井戸として、京都市左京区の大徳寺総見院に残る。
清正といえば「虎退治」が有名であるが、虎拳という遊びの元になったといわれている。
この逸話は黒田長政とその家臣の逸話であるが、後世に清正の逸話にすりかえられている。
秀吉の死後~晩年
秀吉の死により、加藤清正らは日本に帰国。
- 1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が死去。五大老・徳川家康に接近し、家康の養女を継室としている。
- 1599年(慶長4年)3月28日、前田利家が死去。福島正則や浅野幸長ら七将の一人として石田三成暗殺未遂事件を起こす。
清正は家康へさらに接近した。
島津家重臣・伊集院忠真が謀反を起こした。この庄内の乱の首謀者・伊集院忠真を清正が支援していたことが家康に発覚した。
庄内の乱は家康が五大老として事態の収拾を図っていた。激怒した家康は清正の上洛阻止を有馬則頼に命じている。
清正は事実上の謹慎であったため会津征伐、関ヶ原の戦いの参加を許されていない。
しかし清正は家康に大坂の家臣を会津征伐に出陣する家康の下に派遣している。石田三成挙兵後、家康は清正の家臣を肥後に帰して、清正の東軍加勢を認めた。
清正は黒田如水を通して家康ら東軍に協力する約束を交わした。家康から許された清正は8月後半から黒田軍とともに出陣。
小西行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを開城、調略。九州の西軍勢力を次々と破り東軍の勝利に貢献する。
論功行賞により、小西旧領の肥後南半国を与えられ52万石の大封を得た。
- 1606年(慶長11年)、徳川四天王・榊原康政の嫡男・康勝に娘の「あま」を嫁がせた。康政急死により康勝の後見人となる。
- 1610年(慶長15年)、尾張国・名古屋城の普請に協力。
- 1611年(慶長16年)3月、二条城における家康と豊臣秀頼との会見を斡旋。
- 1611年(慶長16年)6月24日、帰国途中の船内で発病し熊本で死去。享年50。
加藤清正が統治する肥後国の豊臣氏の蔵入地3万石は残されて年貢が大坂城の豊臣秀頼の下に送付されていたようである。なんとも清正らしいではないか。
二条城での会見には秀頼の護衛役ではなく、次女・八十姫との婚約が成立していた家康の十男・頼宣の護衛役として参加した。
清正は頼宣とともに秀頼の豊国神社の参詣、鳥羽までの見送りに随行している。家康は徳川・豊臣の和解のために清正の役割に期待した。
余談ではあるが、二条城で会見した家康は秀頼の聡明さに驚愕し、豊臣家を滅ぼす決意をしたといわれている・・・。
加藤清正の死因
加藤清正の死因は諸説ある。
死因としては、
- 好色ゆえの虚ノ病(腎虚・花柳病)
- 家康またはその一派による毒殺説
- 瘡(癩病・ハンセン病)
がある。
暗殺説の中でも
- 二条城会見での料理による毒殺
- 毒饅頭(まんじゅう)による毒殺
など様々にある。
詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
加藤清正の子孫
加藤家の家督は三男・忠広が相続した。
理由は諸説あるが、1632年(寛永9年)に加藤家は改易。忠広は堪忍分1万石を与えられて出羽庄内藩にお預けとなった。
加藤家の家系は山形県酒田市大字新堀などで続いている。
肥後熊本54万石の領主となった細川忠利は、清正の霊位を先頭にかざして肥後に入部。熊本城に入る際「あなたの城地をお預かりします」と言って浄池廟の方角に向かって遥拝し、清正を敬う態度を示した。
本妙寺は細川氏の菩提寺(泰勝寺・妙解寺)並の寺領を寄進されている。
賤ヶ岳の七本槍
羽柴秀吉方で功名をあげた兵のうち以下の7人は後世に「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」と呼ばれている。
- 福島正則
- 加藤清正
- 加藤嘉明
- 脇坂安治
- 平野長泰
- 糟屋武則
- 片桐且元
実際に感状を得、数千石の禄を得たのは桜井佐吉、石川兵助一光も同様である。7人というのは語呂合わせで、七本槍以外にも石田三成や大谷吉継、一柳直盛も含めた羽柴家所属の14人の若手武将が最前線で武功を挙げたと記録されている。
「賤ヶ岳の七本槍」は譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果ともいえる。
官位
加藤清正の官位について。
- 1585年(天正13年)、従五位下・主計頭に叙任。
- 1603年(慶長8年)、豊臣姓を下賜
- 1605年(慶長10年)、従五位上・侍従兼肥後守に叙任。のち従四位下(年代わからず)。
- 1910年(明治43年)、従三位を追贈。
従五位下・主計頭に込めた秀吉の思い
加藤清正というと「虎退治」などのエピソードにより勇猛果敢の豪将のイメージがある・・・。
秀吉は清正に豊臣政権の財務官僚としての役割を期待した。その思いが「従五位下・主計頭」という官位に込められている。
清正は賤ヶ岳の戦い以降、小牧・長久手の戦い・四国征伐・九州平定に参加しているが、ほとんどが後備として秀吉の周囲を守るか後方支援である。
小牧・長久手の戦いの時に作成されたとみられる陣立書には、加藤虎介(清正)の動員兵力はわずか150名であることが記述されている。
「清正記」などの清正の伝記にはいくつもの武功に関する記載と秀吉からの感状の引用が記されているが、それらは全て創作である。
記録で確認すると、
- 豊臣氏の播磨国や和泉国にあった蔵入地の代官。
- 九州平定後の上使としての戦後処理。
- 尾藤知宣改易後、闕所地となった讃岐国に新領主に決まっていた生駒親正が入国するまでの代官
などがある。
加藤清正の装具
加藤清正は身の丈六尺三寸(約190cm)の大男と伝えられている。
- 長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと):浮世絵の武者絵では、この兜と蛇の目紋は清正を表すシンボルとなった。
- 片鎌槍:天草一揆討伐で所持する十文字三日月槍の片刃が折れてしまったが、片鎌槍と称して愛用を続けたという伝説がある。
- 題目旗:熱心な法華宗信者であったため、白地に朱色で題目(南無妙法蓮華経)を書いた旗を戦場で翻らせた。
- 帝釈栗毛(たいしゃくくりげ):清正の愛馬。帝釈とは仏教の守護神帝釈天のこと。
- 金小札色々威片肌脱胴具足(きんこざねいろいろおどしかたはだぬぎどうぐそく):頭には熊毛をあしらい、胸部と背部に片肌を脱いであばら骨の浮いた肉色の体を覗かせた具足で、屍を思わせる恐ろしげなデザインで有名。
片鎌槍は朝鮮の役での虎との戦いで噛み折られてしまったという伝説もある。
また片鎌槍は八十姫の輿入れ道具として持ち込まれ、紀州・徳川家に伝えられた。
築城の名手
加藤清正は藤堂高虎や黒田孝高と並ぶ築城の名手として知られている。
熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わった。
飯田直景、大木土佐らと穴太衆を用いて領内の治水事業にも意欲的に取り組んでいる。
熊本県内には現在も清正による遺構が多く存在する。その土木技術は非常に優れており400年後の現在も実用として使われている遺構も少なくない。
熊本城
熊本城といえば1877年(明治10年)の西南戦争の舞台になっている。
「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂」
これは、田原坂の戦いをうたった有名な歌だが、「越すに越されぬ」は攻撃側の官軍だ。官軍は結局、別経路を進み田原坂を攻略出来ていない。
西郷隆盛率いる薩軍は熊本城の包囲を解き退却。西郷は「官軍に負けたのではなく、清正公に負けた」と言っている。
熊本城は難攻不落だった。みなさんも御存知の通り、西郷隆盛率いる薩軍は熊本城を攻略できず、薩摩に退却し敗れている・・・。
清正井戸
明治神宮の「清正井(きよまさのいど)」は、近年パワースポットとして有名になり、待ち受け画面にすれば幸運が訪れると話題になりました。
この場所は江戸時代、加藤家の下屋敷があったようです。子・忠広が使用していたのは間違いないようですが、清正が住んでいたかはわかっていません。
加藤清正という人、いろんなエピソードがあります。
真田丸では新井浩文が演じる
大河ドラマ「真田丸」では加藤清正を新井浩文が演じている。
登場したばかりですが、どんな加藤清正を演じてくれるのか楽しみデス!
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
調べてみると加藤清正という人物、やはり只者ではない!ますます好きになりました。
そのへんが「真田丸」で描かれればいいのですが・・・。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。