大谷吉継の前半生は少し謎の部分が多いです。「秀吉の隠し子説」は根拠がないが好きな話です。奉行としては優秀だったようです。大谷刑部に関しては賛否両論があり過大評価なんて声もあります。あまり解明されていないからミステリアスでもあり、人気があるのかもしれません。やはり関ヶ原の戦いでの強烈な奮戦と死に様でしょうか・・・。
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近年、大谷吉継公の人気凄いですね。歴史好きな女性(いわゆる歴女)から支持されてるようです。義の人・大谷刑部少輔吉継についての記事投稿です。
それではいってみよう!
目次
大谷吉継
大谷吉継(おおたによしつぐ)。1559年(永禄2年)(1565年説もある)~1600年(慶長5年)9月15日。父は大谷吉房(大谷盛治とも)。母は東殿。近江国(滋賀県)で生まれ。
幼名は桂松。別名は吉隆。通称は紀之介、平馬、大谷刑部。号は白頭。豊臣家臣。越前・敦賀城主。従五位下・刑部少輔。召料は敦賀正宗(相州正宗の作)。
兄弟は妹・こや(小屋)(北政所侍女、御倉番)、下間頼亮室。子は吉治(吉勝)、木下頼継、泰重、竹林院(真田信繁室)。
墓所は福井県敦賀町永賞寺、岐阜県関ケ原町、滋賀県米原市(首塚)。戒名は渓広院殿前刑部卿心月白頭大禅定門。
業病を患い晩年は頭を白い頭巾で隠していたとも言われる。
秀吉の子飼い~清州会議
清州会議までを簡単にまとめた。
天正始め頃、秀吉の小姓となる。
- 1577年(天正5年)10月、秀吉の播磨攻略。脇坂安治、一柳直末、福島正則、加藤清正、仙石秀久らと共に秀吉御馬廻り衆。大谷平馬。
- 1578年(天正6年)5月4日、上月城・尼子勝久が毛利輝元の軍勢に包囲。尼子軍救援に従軍。
- 1578年(天正6年)、三木城攻めには馬廻として従軍。
- 1578年(天正6年)10月15日、平井山で開かれた秀吉陣中での宴に参加。禄は150石とも250石ともいわれる。
- 1582年(天正10年)4月27日、備中高松城攻。馬廻りとして従軍。
- 1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変。
- 1582年(天正10年)6月13日、山崎の戦い。
- 1582年(天正10年)6月27日、清州会議。
大谷刑部という人、いまいちハッキリとした資料がないようです。
羽柴(豊臣)秀吉の家臣
吉継は賤ヶ岳の戦いの前哨戦である秀吉の美濃侵攻にも馬廻衆として従軍した。
- 1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦い。長浜城主・柴田勝豊を調略。先懸衆として石田三成らと共に七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄を立てた。
- 1585年(天正13年)、紀州征伐。増田長盛と共に2,000の兵を率いて従軍。秀吉が伊勢長島城に移った織田信雄を祝いに赴いた際にも同行。
- 1585年(天正13年)7月11日、秀吉は関白叙任に諸大夫12名を置いた。従五位下・刑部少輔に叙任。「源姓」を名乗った説がある。この頃から、本来違い鷹の羽であった家紋を対い蝶に変更。
- 1585年(天正13年)9月、秀吉の有馬温泉湯治に石田三成ら他の近臣と共に同行。
- 1586年(天正14年)、九州征伐。兵站奉行・石田三成の下、功績を立てる。
- 1586年(天正14年)、堺奉行・石田三成の下、実務担当。
- 1588年(天正16年)、毛利輝元上洛の際、接待をする。奉行格に列していた。
- 1589年(天正17年)、越前国・敦賀郡2万余石を与えられ、敦賀城主。
- 1590年(天正18年)、小田原征伐。三成とともに忍城の戦いに参戦。奥州仕置にも従軍し出羽国の検地を担当。
- 1590年(天正18年)末、南条郡・丹生郡・今立郡の村々六三か村、2万6944石を加増され「敦賀5万石」となる。
- 1592年(文禄元年)、文禄の役。船奉行・軍監。
- 1592年(文禄元年)6月、奉行衆の一人として朝鮮諸将の指導、現地報告。明との和平交渉のため明使(謝用梓・徐一貫)伴って石田三成・増田長盛と共に一時帰国し。
- 1593年(文禄2年)5月23日、名護屋城で秀吉と明使との面会をとりはからう。
- 1593年(文禄2年)6月、晋州城攻防戦。
- 1593年(文禄2年)閏9月上旬、帰国。
- 1593年(文禄2年)9月吉日、鶴亀文懸鏡を大宰府天満宮に寄進。
- 1597年(慶長2年)9月24日、秀吉が徳川家康・富田知信・織田有楽斎らを伴い、伏見の大谷邸を訪問。
- 1598年(慶長3年)6月16日、豊臣秀頼の中納言叙任の祝いには病をおして参列。
- 1599年(慶長4年)、神龍院梵舜と女能を見物。
大宰府天満宮に寄進した鶴亀文懸鏡の銘に吉継の家族名が列挙されており、「東・小石・徳・小屋」のうち、徳と小屋が吉継の娘であることから、真田信繁の正室・竹林院の実名は「徳」か「小屋」のいずれかであることがわかる。
関ヶ原の戦い
1598年(慶長3年)8月に秀吉が死去。吉継は五大老の徳川家康に接近。
- 1599年(慶長4年)、前田利家による徳川邸襲撃の風聞が立った際、福島正則ら武断派諸将らと共に徳川家康を警護。
- 1599年(慶長4年)、前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱の際は、石田三成の内衆と共に越前表に出兵。
- 1599年(慶長4年)、宇喜多家中の紛争の調停。
- 1600年(慶長5年)7月、上杉会津征伐。討伐軍に参加する途中で三成の居城である佐和山城に立ち寄る。
三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられた。
吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得。しかし三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながら一族をあげて三成に味方した。
吉継の母・東殿局は高台院の代理として宇喜多秀家が行った出陣式に出席している。
東軍の前田利長を牽制するため越前・加賀における諸大名の調略。丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功。
- 1600年(慶長5年)8月、浅井畷の戦い。
- 1600年(慶長5年)9月、吉継は脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・戸田勝成・赤座直保らの諸将を率いて美濃国に進出。
- 1600年(慶長5年)9月15日、関ヶ原の戦い。関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田勝成・平塚為広の諸隊、合わせて5,700人で布陣。
午前中は東軍の藤堂高虎・京極高知両隊を相手に奮戦。
正午頃、松尾山の小早川秀秋隊1万5,000人が東軍に寝返り大谷隊を攻撃。小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃。
大谷軍も善戦するが、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けた。
これが決定的で大谷隊は壊滅。大谷吉継は自害。享年42。
自害する際、小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹したが、この祟りによって秀秋は狂乱して死亡に至ったという噂がある。秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に謎の死をとげている。
吉継の首は側近である湯浅五助(隆貞)により関ヶ原に埋められ、東軍側に発見されることはなかった。
異説としては吉継の首を家臣・三浦喜太夫が袋に包んで吉継の甥の従軍僧・祐玄に持たせて戦場から落とし、祐玄が米原の地に埋めたとも言われる。現地には首塚も建てられている。
三浦喜太夫は追腹を切り、湯浅五助は藤堂隊に駆け行って討ち死。
辞世は「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」。
平塚為広の辞世「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句だ。
この死に様が皆の心をつかむのだろう・・・。
秀吉の隠し子
母・東殿は高台院の侍女であり、秀吉家中で重責を担っていた。
よって秀吉の「隠し子」とする説もある。吉継の名が「秀吉を継ぐ」なんていわれている。
本当のことは分からないが、好きな話だ!
大谷吉継の子孫
子・大谷吉治は関ヶ原の戦い後に浪人。
- 1614年(慶長19年)、大坂冬の陣。義兄弟・真田信繁らとともに大坂城へ入城。
- 1615年(慶長20年)、大坂夏の陣。福井藩主・松平忠直の軍勢と戦い討死。
子孫は帰農したが、後に直系は絶え、石田家より養子を迎えて存続。
三男・泰重の子で吉継の孫にあたる大谷重政は越前松平家に仕官し、その子孫は福井藩家老の家格に列した。老中・土井利勝らは「家康公が知ったら喜んだだろう」と言ったという。
会津戦争に際して白虎隊士中2番隊の隊員で飯盛山で自刃したとされる19名に含まれている津田捨蔵は吉継の子孫と言われる。
娘は真田信繁の正室
大谷吉継の娘(妹、姪を養女としたという説もある)は真田信繁の正室であるというが信頼できる史料は無い。
吉継の娘の名前は史料では確認されておらず、死後の法名・竹林院という号しかわかっていない。
関ヶ原の戦い後は信繁の配流に従い九度山に移り大坂の役で信繁が死去すると、娘・おかね夫婦の援助を受け京都で余生を送った。
1649年(慶安2年)に死去。信繁の子のうち幸昌、守信、あくり、阿昌蒲、おかねが子とされている。
千人斬り
1585年(天正13年)11月27日、28日頃から大坂で「千人斬り」という辻斬り騒動があった。犯人として大谷吉継の名前が噂された。
- 1586年(天正14年)2月21日、秀吉の耳に届き、報告を怠った奉行を「追篭」。黄金10枚(100両)の懸賞金の高札をたてた。
- 1586年(天正14年)2月27、28日頃、辻斬り騒動の下手人の目星がつく。
- 1586年(天正14年)3月3日、千人斬りの下手人として大名衆の子息数名を捕らえる。(下手人の一人は宇喜多次郎九郎)
- 1586年(天正14年)3月3日~8日、大坂で処刑。
この事件の後も秀吉は吉継を変わらず重用。
一説に吉継の側近としての台頭を妬む一派の仕業ともいわれるが、秀吉・吉継主従の絆の強さを示すものである。
徳川家康との関わり
大谷吉継は石田三成と違い徳川家康を敵視しておらず親しかったと言われている。
1589年(天正17年)11月、小田原征伐を決めた秀吉は家康の出方を探るため、吉継を派遣し交渉させている。吉継は家康の実力と器量を認める。
1590年(天正18年)3月19日、小田原征伐途中、秀吉が駿府城に立ち寄ろうとしたとき石田三成は反対した。が吉継は「大納言殿はそのようなことをされる方ではない」と反論して秀吉に入城を勧めたという。
1600年(慶長5年)7月、会津征伐が終わり次第、12万石に加増することを約束したとも言われる。吉継が西軍に与したことを知った家康は非常に狼狽したという逸話がある。
大谷吉継・徳川家康は互いに人物を認めていた。家康を認めていながら、石田三成に味方した形部という男・・・。
石田三成との関係
大谷刑部と石田三成との間には深い友情が存在したとされ、友情意識に疎い戦国時代においては両者の親密な関係は美事と思われ、衆道関係であったとする記録も存在する。
大谷刑部・石田三成といえばこれを書かなければなるまい。
1587年(天正15年)、大坂城で茶会が開かれた。招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していった。
吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであった。
三成だけ普段と変わりなく茶を飲み干したといわれている。
一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ち、周りの者達はさらにその茶を飲むのをためらったが、三成はその膿ごと茶を飲み干し、おいしいので全部飲んでしまったからもう一杯茶を注いでほしいと気を利かせたとされる。
茶会での出来事に吉継は、いたく感動したと言われる。
真田丸では片岡愛之助が演じる
大河ドラマ「真田丸」では大谷吉継を片岡愛之助が演じている(笑)。
イメージじゃないですね。色んな意味で話題性がありすぎます。
管理人の中で義の人・大谷吉継と片岡愛之助が一致しません。
少しだけ期待してるんですが・・・。
第37話「信之」
第37話「信之」では刑部殿(片岡愛之助)の最期が描かれている。
詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。
参考サイト
参考サイトは以下のとおりです。本当にありがとうございました。
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まとめ
大谷刑部というと関ヶ原の戦いでの最期があるので、なんか悲しくなってしまいます。
「真田丸」で大谷刑部を演じる片岡愛之助を冷静に見ていきたいと思います。
それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)
お読みくださってありがとうございました。それでは。