「真田丸」第33話「動乱」感想。豊臣家に忠義を尽くす佐吉と紀之介

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刑部殿が心配していたとおり、治部殿と家康の対決の構図になってしまった。源次郎信繁と刑部殿は、治部殿に諦めさせるために策を尽くす。治部殿は追い詰められた。しかし追い詰められた治部殿を皆が救う。治部殿を取り巻く刑部殿・源次郎信繁・景勝・兼続に泣けてくる・・・。

こんにちは、こんばんは、はじめまして、毎度です(笑)。aoplanning.comの管理人aki(@aoplanning_com)です。

治部殿の涙に涙する・・・。

歴史好きの管理人が大河ドラマ「真田丸」レビューを好き勝手に記事投稿します。

それではいってみよう!

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大河ドラマ「真田丸」第33話「動乱」あらすじ

1599年(慶長4年)正月21日、伏見のもっとも長い一日が始まろうとしている。治部殿は伏見城下の徳川屋敷を襲撃して徳川家康を討ち取ることを決意した。

治部殿は密かにことを成し遂げたかったが、本多正信の策謀により大きな騒ぎになってしまう。伏見在住の大名に声をかけ、徳川屋敷を警護させた。これにより、豊臣恩顧の大名の動向を探るためである。

徳川屋敷には、続々と大名が集まるが、治部殿方には思うように人が集まらない。北政所までも、治部殿を騒ぎの元凶のように思っている。

豊臣家を誰よりも思っている治部殿の気持ちが誰にも届かない。治部殿と北政所の気持ちは、すれ違う。治部殿は追いつめられていく・・・。

秀吉に「佐吉を頼む」と託された源次郎信繁は、この騒ぎを収めたかった。父・安房守に頼み、徳川屋敷に行ってもらう。これは治部殿に諦めされるための策だ。信繁の思いが、ひしひしと伝わる・・・。

源三郎信幸は、本多忠勝・徳川家康との関係性からも徳川屋敷に詰めていた。そこへ安房守が参加する。そして治部殿の友・刑部殿までも・・・。

徳川屋敷には真田家の「六文銭」、味方に出来なかった細川家の「九曜」の旗印があがる。

安房守が持参した伏見・徳川屋敷の絵図面を元に軍議が開かれる。なんで絵図面を持っているのか誰も突っ込まないが、久しぶりに安房守の顔がイキイキしている(笑)。

源三郎も安房守が徳川屋敷に来たことの意味を悟っている。安房守とのアイコンタクトで、全てを察知した。源三郎信幸も成長している。

伏見・治部少輔丸の治部殿は、徳川屋敷に攻め込もうとしたが、源次郎信繁と上杉景勝に説得された。治部殿は兵を解いた。

伏見のもっとも長い一日が終わった・・・。

明け方、徳川屋敷から諸将が引き上げる。その光景をみた家康は決意する。正信の思惑通りに。

この日より、徳川家康の天下取りの道がはじまる・・・。

本多正信。家康の名参謀、子・正純は宇都宮城釣天井事件で失脚
本多正信は徳川家康に「友」と呼ばれ、家康・秀忠に仕えた。相模国玉縄藩主。従五位下・佐渡守。本姓は藤原氏。江戸幕府・老中。家康の征夷大将軍就任のため朝廷との交渉に尽力。本願寺内部の対立を利用し分裂させ勢力を弱めている。江戸幕府では権勢を誇る。嫡男・正純に訓戒を残しているが、正純は「宇都宮城釣天井事件」にて失脚している。
本多平八郎忠勝。小松姫の実父であり、徳川四天王、徳川十六神将
徳川四天王、徳川十六神将である本多平八郎忠勝。上総大多喜藩主、伊勢桑名藩主。官位は従五位下・中務大輔。豪将であり義の人というイメージです。真田昌幸、信繁(幸村)の助命があるからだと思います。生涯57回の戦で一度も負けなかったが、死の数日前、小刀で手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまったことは有名である。
高台院(北政所)。豊臣秀吉の正室、後陽成天皇より従一位を賜る
高台院(北政所)。諱には諸説あり、「ねね」とされることが多いが「おね」「祢(ね)」「寧(ねい)」という表記もある。「寧」「寧子」「子為(ねい)」などと記されている事から「ねい」説もある。位記には「豊臣吉子」の表記もある。法名は高台院湖月心公。豊臣秀吉の正室。兄は木下家定、甥に小早川秀秋がいる。

板部岡江雪斎ふたたび

源次郎信繁(堺雅人)は伏見城の廊下で、思いがけない人物とすれ違う。板部岡江雪斎(山西惇)だ。

第24話「滅亡」以来の登場だから久しぶりである。出番はあると思っていた。

「数奇な運命でござるよ」なんていいながら、しっかり徳川家とつながっていた。

ドラマでは、金吾中納言こと小早川秀秋(浅利陽介)に仕えてるらしい。金吾中納言・・・。

史実の板部岡江雪斎は、関ヶ原の戦いで小早川秀秋を説得している。

関ヶ原の戦いの楽しみがまた増えた。

板部岡江雪斎。北条三代の外交僧、北条滅亡後は秀吉・家康に仕える
北条三代(氏康・氏政・氏直)に仕えた外交僧・軍師である板部岡江雪斎。後北条家滅亡後は豊臣秀吉・徳川家康に仕えている。千利休の高弟・山上宗二と交流があり、和歌・茶の湯にも造形が深かったと言われる。愛刀の江雪左文字は国宝であり、執権・北条氏(北条時行)の子孫とされる。
「真田丸」第24話「滅亡」感想。小田原落城~天下一統
大河ドラマ「真田丸」が真田家を描いたドラマなのはわかっている。ここ数回は丁寧に北条を描いてきただけに少し残念に思った放送回だった。小田原を拠点とした北条家による関東支配が終わった。北条氏政の最期は見事であり、北条家が好きになった。少し残念に思ったけど、こんなに丁寧に北条を描いたドラマもないだろう・・・。
小早川秀秋。秀吉の養子、金吾中納言~関ヶ原の戦いで西軍を裏切る
小早川秀秋といえば関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったということになるが・・・。通称「金吾中納言」も有名である。飲酒についてはかなり好きだったようであるというか、飲まなければプレッシャーがありやってられなかったのだろうか。気持ちはわかる。天下人が叔父というのはかなりのもんだと思う。そういう意味では同情してしまう・・・。

千成瓢箪(せんなりびょうたん)

治部殿(山本耕史)は、豊臣秀頼の許しを得るために大坂城に赴く。

千成瓢箪の旗印の使用許可を願うが、大蔵卿局(峯村リエ)の反対にあい断念している。

秀頼の出馬はなくても、せめて千成瓢箪が使用できれば・・・。

秀吉の馬印について。

  • 小馬印-金の逆さ瓢箪に金の切裂
  • 大馬印-金の軍配に朱の吹き流し

千成瓢箪は馬印としては用いられなかったが、船印に使用されていたという説もあるようだ。

豊臣秀頼。母は淀殿、豊臣家の公達。本当に秀吉の実子なのか?
秀頼が誕生したことにより、多くの人の運命が狂った。別に秀頼のせいではないが、豊臣秀次は典型的な人物であろう。秀次死後、秀吉の期待を一心に背負い秀頼は成長する。豊臣家のプリンス・公達として・・・。豊臣政権の永続を願い崩壊が始まってることに気づかず秀吉は死んだ。そして豊臣政権は永続しなかった・・・。
大蔵卿局。淀殿・豊臣秀頼の乳母、子には大野治長・治房・治胤・治純
大蔵卿局。淀殿・豊臣秀頼の乳母であり、子には大野治長・治房・治胤・治純。豊臣秀吉の死後、秀吉の正室・高台院とその従者の孝蔵主が大坂城から去ると、子の大野三兄弟と共に豊臣家で重用され権勢を振るった。最期は秀頼や淀殿に殉じて、子の治長と共に自害。戒名は智勝院桂宗春大禅定尼。

細川忠興と干し柿

治部殿(山本耕史)は、細川忠興(矢柴俊博)を味方にするために細川邸を訪れた。

目の前には「干し柿」が。忠興(矢柴俊博)を味方にすることはできなかった・・・。

史実での三成と忠興は仲が悪かった。

前田玄以に仲介してもらい、仲直りするために一席をもうけた。

仲直りの挨拶もせずに、三成は干し柿の載せた盆を前に置き、以下のようにいったようである。

「越中守は柿が好物だと聞いたので、持参いたした。それがしのことは気にせず、食して頂きたい。」

すると忠興は、激怒して帰ってしまったという話がある。

ドラマでも忠興(矢柴俊博)が話そうとするのを、治部殿(山本耕史)が喋ってしまい、結果的に話を遮っている。

細川忠興。本能寺の変後は正室・玉子を幽閉、茶道・三斎流の開祖
「茶道四祖伝書」では、細川忠興は「天下一気の短い人物」と書かれた。父は細川藤孝(幽斎)。正室は明智玉子(洗礼名:ガラシャ)。父・幽斎(藤孝)と同じ教養人で、和歌や能楽、絵画にも通じた文化人であった。著書には「細川三斎茶書」がある。「利休七哲」の一人に数えられ、茶道の流派・三斎流の開祖。

三成と干し柿

三成と干し柿といえば、三成処刑前の話が有名である。

京都の町を引廻されている最中にお湯が飲みたくなったので、警護の者に伝えたところ、お湯がなかったので干柿を差出された。三成は「痰の毒」であるから食べないと言って断った。

これも関ヶ原の戦いへの伏線であろうか・・・。

大河ドラマ「真田丸」第33話「動乱」レビュー

第33話「動乱」で、思いついたことをつらつらと・・・。

島左近

治部殿の家臣・島左近が初登場。いよっ、待ってました!

演じているのは玉置孝匡。管理人にとってSMAP・香取慎吾でなかったのが残念です。

島左近は三成が「三顧の礼」をもって迎えた家臣である。

詳細は記事投稿してますので、よろしければ参考にしてみてください。

島左近(清興)。三顧の礼をもって迎えられ、石田治部少輔三成に仕える
島左近(清興)といえば、三顧の礼をもって迎えられ、石田治部少輔三成に仕えたことで有名である。俸禄・2万石は破格の待遇だ。三成が佐和山19万石になる前に仕えている説が有力。関ヶ原の戦いで討ち死にしたと伝わるが、遺体は見つかっていない。そしてのちも生きたとの伝承もある・・・。
【真田丸】島左近を演じるのはSMAP・香取慎吾を熱望する!
島左近は三顧の礼をもって石田治部少輔三成に迎えられ仕えている。俸禄・2万石は破格の待遇だ。関ヶ原の戦いで討ち死にしたと伝わるが、遺体は見つかっていない。そしてのちも生きたとの伝承もある・・・。真田丸での島左近役はSMAP・香取慎吾しかいないだろう!

河原綱家の前歯

源三郎信幸(大泉洋)は、本多忠勝(藤岡弘、)・徳川家康(内野聖陽)の手前、徳川屋敷の警護に参加した。

目立たぬように河原綱家(大野泰広)と隅に座っていた。すると伊豆守(大泉洋)と飲みたい福島正則(深水元基)が、河原綱家(大野泰広)をすっ飛ばして座った。

すっ飛ばされた河原綱家(大野泰広)は鼻というか口のあたりをおさえていた。

わざわざカメラをアップにしたので、これは前歯は大丈夫だということだろうと思った。

河原綱家と前歯といえば、犬伏の会談を覗き見して真田昌幸に下駄を投げつけられる話がある。

「犬伏の別れ」は、すぐそこにある・・・。

真田信幸(信之)と本多平八郎忠勝の娘、正室小松姫
弟真田信繁(幸村)と違って地味な印象がある真田信幸(信之)。しかし関ヶ原の戦い、大坂の陣を乗り越え真田家を残すのは真田信幸(信之)である。そして信幸(信之)の真田家は幕末まで残り、明治維新をむかえる。その血筋は現在まで残る。信幸(信之)の正室は本多平八郎忠勝の娘、小松姫である。この二人に焦点をあてて記事投稿をします。
河原綱家。犬伏の密談を覗き、真田昌幸に下駄を投げられ前歯を折る
河原綱家といえば、犬伏の密談を覗き、真田昌幸に下駄を投げられ前歯を折ることで有名である。綱家は、それ以降一生「すきっ歯」となってしまった。管理人も河原綱家に関する情報は、下駄しかなかったので調べてみた。
犬伏の別れ。関ヶ原の戦いを前にした真田父子の別れ
関ヶ原の戦いを前に、下野国犬伏(現在の佐野市)で真田昌幸、信幸、信繁父子は話し合いをする。信幸が徳川方、昌幸と信繁が豊臣方に分かれて戦うことを決断。「犬伏の別れ」である。どちらが勝っても真田の家が残るようにと言われている。信幸(信之)の正室の養父は徳川家康であり、信繁(幸村)の正室の父は大谷刑部少輔吉継であるのだか。
福島正則。羽柴清須侍従、広島城改修などが原因で晩年は改易
福島正則は羽柴清須侍従などと呼ばれた。幼少期を秀吉の小姓として加藤清正らと育っている。また賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名。朝鮮出兵後は、石田三成らの文治派と対立する。会津征伐に従軍し、小山評定では重要な役割を果たし、関ヶ原の戦いで東軍が勝利する流れを作った。

佐吉と虎之助

管理人は真田丸での加藤清正(新井浩文)を気に入っている。

佐吉と虎之助・・・。

虎之助(新井浩文)は佐吉(山本耕史)がわかっている。逆もまたしかり。

虎之助(新井浩文)は、単なる脳筋の時もあるし、繊細な部分もある。

治部殿(山本耕史)が言った「お主は案外城作りも上手いし、領内の仕置も確かだ。ただの戦バカではない。」が全てではないだろうか。

秀吉・刑部殿の次くらいに治部殿をわかっているのではないかと思う。

管理人は真田丸の虎之助(新井浩文)が好きである・・・。

加藤清正。賤ヶ岳の七本槍だが、従五位下主計頭に込めた秀吉の思い
熊本城築城、賤ヶ岳の七本槍、虎退治、地震加藤などで有名な加藤清正。エピソードが多い武将だ。意外だが、文禄・慶長の役まで大軍を指揮していない。当初から石田三成と対立していたわけではなく、ただの「猪武者」でもないようだ。勇猛果敢な豪将のイメージがあるが最初の官位は従五位下・主計頭である。そこに込めた秀吉の思いとは・・・。
「真田丸」第32話「応酬」感想。五大老・五奉行の合議制、早くも?
1598年(慶長3年)8月18日、巨星墜つ。太閤・豊臣秀吉が死去。遺言どおり「五大老・五奉行」の合議制による政治は始まった。しかし徳川家康が足並みを見だす。多数派工作の宴を開くは、禁止されていた大名同士の縁組を結ぶ。早くも「五大老・五奉行」の合議制は暗礁に乗り上げる・・・。

紀之介と佐吉

やはり紀之介と佐吉も書かなければ。

紀之介(片岡愛之助)も佐吉(山本耕史)も豊臣家を思う気持ちは一緒。

家康に対する考え方が違うだけである。

  • 紀之介(片岡愛之助)は、力のある徳川内府(内野聖陽)を要として政権を運営。
  • 佐吉(山本耕史)は、力のある徳川内府(内野聖陽)だからこそ排除する。

という考えだ。

佐吉(山本耕史)は、「家康を殺せ」という言葉を秀吉の大切な遺言ととらえた。

それを紀之介(片岡愛之助)は「死を前にした老人の世迷い言に振り回されるな」と一蹴。

このセリフ、片岡愛之助も力が入ったのだろう。完全に歌舞伎調だったような・・・。でも力が入ったのが伝わって、すごく良かった!!

友である佐吉(山本耕史)の暴挙をやめさせるために、あえて徳川屋敷の警護にいった。

「大谷刑部は秀頼公の家臣でござる」の言葉には、豊臣恩顧の大名たちもうなずいた。

すべては豊臣家と友のために。泣けるではないか・・・。

大谷刑部少輔吉継。義の人、石田三成との友情~関ヶ原の戦いで散る
大谷吉継の前半生は少し謎の部分が多いです。「秀吉の隠し子説」は根拠がないが好きな話です。奉行としては優秀だったようです。大谷刑部に関しては賛否両論があり過大評価なんて声もあります。あまり解明されていないからミステリアスでもあり、人気があるのかもしれません。やはり関ヶ原の戦いでの強烈な奮戦と死に様でしょうか・・・。

治部殿の涙

石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行筆頭~関ヶ原の戦い,アイキャッチ画像

そして治部殿(山本耕史)。

病気であるがために友の刑部殿(片岡愛之助)には、あえて声をかけていなかった。

しかし、味方になってくれと頼みに行った治部殿(山本耕史)は、泣いていた。

そんな治部殿(山本耕史)を源次郎信繁(堺雅人)が引き止める。

源次郎信繁(堺雅人)「いけませぬ。石田様には、まだまだ生きていただけなければなりません」

源次郎信繁(堺雅人)「石田様は、常に天下の安寧のために働いてこられました。時には太閤殿下にさえ逆らった。命がけで・・・」

源次郎信繁(堺雅人)「天下万民に尽くしてこられた姿、私は見てきました。あなたにしか成し得ないこと」

源次郎信繁(堺雅人)「己の欲で動く徳川内府には思いもつかないことでございます。死んではなりません・・・」

よく言ったぞ~、源次郎(堺雅人)。ここにも治部殿(山本耕史)をわかっている男がいた・・・。直江兼続(村上新悟)は「義のため命を捨てる男」と評する。

一人二人と治部殿(山本耕史)の義を理解するものが周りに。治部殿(山本耕史)の寂しさをわかっているものだけが・・・。

治部殿(山本耕史)は上杉景勝(遠藤憲一)に抱きしめられた・・・。

石田三成。三献茶から佐和山城主、五奉行の一人~関ヶ原の戦い
石田三成は秀吉が天下人になると秀吉の子飼いから次第に台頭する。確かに三成は槍働きの武将ではない。忍城水攻めの失敗から戦下手のイメージもある。秀吉の子飼いでも福島正則などとは正反対の武将だ。歴史とは勝者が都合よく伝えたものがほとんどである。三成の研究が進むことを望む。でもなんだろう石田三成のことを思うと切なくなる・・・。

「真田丸」第33話「動乱」視聴率

堺雅人主演の大河ドラマ「真田丸」第33話「動乱」が2016年8年21日放映された。平均視聴率は18.0%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。

やはり内容と視聴率はリンクしますね。素晴らしい内容でした!

「早丸」と呼ばれるBS視聴率は4.5%。好調時に戻しました。

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まとめ

関ヶ原の戦いと犬伏の別れを連想させるものがあり、切ない放送回ではあったが、素晴らしかった!

何度泣いたであろうか・・・。

治部殿を引き止めた上杉家にも「直江状」「会津征伐」が迫る。

次回予告では治部殿が泣いているし、次回のタイトルが「挙兵」とは泣けるではないか。

関ヶ原の戦いは、もうすぐそこにきている・・・。

それでは感謝の気持ちでしめます。いつもありがとうございます・・・。by aki(@aoplanning_com)

お読みくださってありがとうございました。それでは。

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